日本大百科全書(ニッポニカ) 「清河八郎」の意味・わかりやすい解説
清河八郎
きよかわはちろう
(1830―1863)
幕末の志士。姓は生地清川にちなむもので「清川」とも書く。庄内(しょうない)藩郷士斎藤治兵衛豪寿(じへえひでとし)の長男。幼名元司、のち正明。1847年(弘化4)18歳で江戸に出て東条一堂の塾に入門し文を学び、剣を北辰(ほくしん)一刀流の千葉周作(しゅうさく)に学んだ。関西、四国、九州へ旅行し熱烈な攘夷(じょうい)論者となり、真木和泉(まきいずみ)、平野国臣(くにおみ)らと親交を結んだ。63年(文久3)2月幕府の浪士組(後の新選組)編成に応じて上洛(じょうらく)し、その中心人物であったが、幕府に反して尊攘を主張して近藤勇(いさみ)・土方歳三(ひじかたとしぞう)らと対立、東帰を命ぜられた。江戸に帰ってから、横浜外国人居留地の焼打ち準備を進めていたが、同年4月13日に、江戸麻布(あざぶ)一の橋で幕府見廻(みまわり)組佐々木只三郎(たださぶろう)らに暗殺された。享年34。郷里の山形県庄内(しょうない)町清川に清河八郎記念館がある。著書に『西遊草(さいゆうそう)』がある。
[小島政孝]
『小山松勝一郎著『清河八郎』(1974・新人物往来社)』