朝日日本歴史人物事典 「清河八郎」の解説
清河八郎
生年:天保1.10.10(1830.11.24)
幕末の庄内藩(山形県)郷士,尊攘派志士。名は正明。郷士斎藤豪寿と亀の長男として出羽国田川郡清川に生まれた。文雅を嗜み,藤本鉄石ら諸国の名士を歓待する家に育つ。弘化4(1847)年江戸に出て,東条一堂,安積艮斎に師事。昌平黌に学び,剣を千葉周作に修めた。間崎哲馬,山岡鉄舟,美玉三平らの知己を得る。この間近畿,中国,九州を遊歴。安政1(1854)年神田に開塾,文武二道を指南しつつ山岡や伊牟田尚平,北有馬太郎らと虎尾の会を結成し,尊王攘夷を画策。万延1(1860)年殺傷事件で追捕される身となったが,東北から九州へと知友を頼り,それを介して縁故を広げていくことで潜伏から遊説へと意義を変える。田中河内介,平野国臣,小河一敏らと文久2(1862)年の島津久光上洛を機に挙兵せんとするが,寺田屋の変で挫折。藩という背景を持たなかったために志士間で孤立,やがて運動の対象を幕府へと移していった。翌3年,山岡,間崎を通じて政事総裁職松平慶永に尊攘派の大赦と浪士組編成を建言。事成って上洛するが,学習院への攘夷決行の建白が幕府の忌諱に触れ江戸に戻る。横浜外人居留地焼打ちの企てを進めるなか,見廻組佐々木只三郎により斬殺される。年34。その朝,寄寓する山岡宅を出て高橋泥舟を訪うた際の「魁けてまたさきがけん死出の山まよひはせまじ皇の道」が奇しくも辞世となった。<著作>『潜中紀略』『潜中紀事』『芻蕘論文道篇』『芻蕘論武道篇』<参考文献>山路愛山編『清河八郎遺著』
(三井美恵子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報