日本大百科全書(ニッポニカ) 「庭瀬藩」の意味・わかりやすい解説
庭瀬藩
にわせはん
備中(びっちゅう)国賀陽(かよう)郡庭瀬(岡山市北区)に陣屋を置いた小藩。藩祖戸川達安(とがわみちやす)はもと宇喜多(うきた)氏の譜代(ふだい)老臣であったが、1599年(慶長4)の家中騒動で主家を離れ、のち関ヶ原の戦いには徳川方に属し、その功によって備中国のうち2万9200石を与えられた。その後、1679年(延宝7)4代藩主安風(やすかぜ)は嗣子(しし)がないため改易となったが、この間に、早島(はやしま)、帯江(おびえ)、妹尾(せのお)、撫川(なつかわ)の4家に分封され、旗本知行地(ちぎょうち)とされた。こののち、早島知行所から中庄(なかしょう)知行所が取り立てられ、これら5知行所は明治維新まで継承された。旧庭瀬領は、代官支配(天領)を経て、下総(しもうさ)国(千葉県)関宿(せきやど)から久世重之(くぜしげゆき)が、また大和(やまと)国(奈良県)興留(おきとめ)から松平(まつだいら)(藤井)信通(のぶみち)が次々と入部したが、1699年(元禄12)板倉重高(いたくらしげたか)が2万石で庭瀬藩主に封ぜられ、上総(かずさ)国高滝から入部。以後11代にわたり在封して明治維新に至った。庭瀬県、深津県、小田県を経て岡山県に編入。
[人見彰彦]