梶山村(読み)かじやまむら

日本歴史地名大系 「梶山村」の解説

梶山村
かじやまむら

[現在地名]大洋村梶山

北浦の東岸に位置し、北は二重作ふたえざく村、東は汲上くみあげ村。常陸大掾系図によれば、鎌倉初期、中居四郎時幹は二子時家を梶山に配して所領化を進め、以後時家の子孫は梶山氏を称し、地頭として当地を領有した。応永三年(一三九六)八月の大宮司大中臣則重等連署申状(鹿島神宮文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、室町前期には梶山氏の勢力は強化され、鹿島神宮の神領にも及んでいた。同二四年一〇月の烟田幹胤軍忠状案(烟田文書)に「大掾(宮崎一跡)庶子持寺・菅谷・瀬落・飯岡(梶山庶子)為御敵条、無是非者也、仍鹿嶋郡中致乱妨狼藉放火条、無其隠」と記され、上杉禅秀の乱に際し、梶山氏は一門諸氏に反して、禅秀側に荷担し、郡中を混乱させたが、乱後、地頭職と所領を没収された。


梶山村
かじやまむら

[現在地名]糸魚川市梶山

根知ねち川最上流、こまヶ岳(一四八七・四メートル)南西麓に立地。延宝八年(一六八〇)山口やまぐち村の申御納所算用目録に梶山新田とみえ、高二石七斗、免一ツ八分余とある(糸魚川市史)。天和二年(一六八二)山口村願書には鍛冶山村とみえ、本村山口村との間に別所べつしよ村・山寺やまでら村を隔てるので、水帳を別にするよう願が出されている(同書)。しかし元禄・天保の郷帳に村名の記載はなく、享保一五年(一七三〇)の年貢割付も山口村庄屋が交付しており、田方一六石一斗余・取米四石六斗余・納米二斗余、畑方七石五斗余・取米一石四斗余である(同書)。弘化二年(一八四五)の夫食米拝借願によれば、独立村である横江よこえ村の一七俵に対し、梶山村は枝郷ではあるが、「家数多き村方につき」と八五俵を申入れている(同書)


梶山村
かじやまむら

[現在地名]相知町大字相知

厳木きゆうらぎ川左岸と平山ひらやま川右岸に挟まれた地を中心とする。

観応三年(一三五二)三月一八日付相知蓮喜の妙音みようおん寺への寄進状(妙音寺文書)の連署名に「梶山との源照」とあり、有浦家文書の相知村内面々相伝系図に「梶山小次郎入道松鶴蓮賀」と記す。相知由緒略録に「向梶山白山権現之宮有、梶山主計亮建立之由」とある。梶山氏は相知氏の支族で、現在の梶山かじやま公園に梶山砦があり、ここに居住した。南北朝時代は蓮賀、秀と武名をあげたが、秀の戦死後は史上に現れることは少ない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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