森忠政(読み)もりただまさ

改訂新版 世界大百科事典 「森忠政」の意味・わかりやすい解説

森忠政 (もりただまさ)
生没年:1570-1634(元亀1-寛永11)

近世初頭の大名,可成(よしなり)の六男。千丸,右近大夫,羽柴金山侍従,川中島侍従,美作守と称する。1584年(天正12)兄長可(ながよし)の戦死家督を継ぎ美濃金山城主。1600年(慶長5)2月信濃の川中島13万7000石余を領し,関ヶ原の戦には徳川秀忠に属して信濃上田の真田昌幸を攻め,03年美作津山18万6000石余を与えられた。14年大坂冬の陣には天満口を攻め,翌年仙波口を攻めた。17年(元和3)領知安堵,34年(寛永11)将軍家光の上洛に先立って京都に上り,7月7日卒した。
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朝日日本歴史人物事典 「森忠政」の解説

森忠政

没年:寛永11.7.7(1634.7.31)
生年元亀1(1570)
安土桃山時代の武将,江戸時代前期の大名。可成の6男。母は林通安の娘,妙向尼。幼名千丸。豊臣秀吉に仕える。天正12(1584)年兄長可の遺領美濃国(岐阜県)金山城7万石を継ぐ。同15年2月6日従四位下侍従に叙任,羽柴姓を授けられ,文禄1(1592)年には肥前名護屋城の警護に当たる。秀吉死後は徳川家康に仕え,慶長5(1600)年2月,信濃更科・水内・埴科・高井4郡に移封,海津城主となり13万7500石を領した。同年の関ケ原の戦では徳川方東軍に属し所領を安堵される。同8年美作津山に移封,藩祖となり18万6000石余を領す。3代将軍徳川家光の上洛に際し京都に赴くが,その際,食事が原因で急死。葬地は京都大徳寺三玄院。<参考文献>『津山市史』3巻

(長谷川弘道)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「森忠政」の解説

森忠政 もり-ただまさ

1570-1634 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
元亀(げんき)元年生まれ。森可成(よしなり)の6男。兄長可(ながよし)の戦死で,美濃(みの)(岐阜県)金山の遺領をつぐ。豊臣秀吉の没後は徳川家康について信濃(しなの)(長野県)川中島4郡に13万石をあたえられ,慶長8年(1603)美作(みまさか)(岡山県)津山藩主森家初代となる。18万6500石。寛永11年7月7日死去。65歳。幼名は千丸。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の森忠政の言及

【津山[市]】より

…【由比浜 省吾】
[津山城下]
 津山藩主森・松平両氏の城下町。1603年(慶長8)信濃国川中島13万7500石から美作一国18万6500石に移封された森忠政は,かつて守護館が設けられた美作の府院庄に仮城を構えたが,翌年要害の地鶴山を選んで城地と定め,16年(元和2)まで13年の歳月を費やして壮大な平山城を築いた。巨大な石垣を3段に築き上げた津山城(鶴山城)は,南に吉井川を望み,北と東は断崖で囲まれた天然の要害であった。…

【津山藩】より

…初期は外様,中期以降は家門中藩。1603年(慶長8)森忠政が朱印高18万6500石の美作一国を与えられ,信州川中島から移封されて立藩した。彼は新規に津山城を築き,領内各地から商人,職人を集めて城下町を経営するとともに慶長検地を行い,また国衆の土着した土豪地主の懐柔に努め,頭百姓の格を与え,大庄屋,肝煎,庄屋などに取り立て,地方支配の体制強化に尽力した。…

【美作国】より

…そのため宇喜多,小早川の遺臣が美作の各地に土着帰農した。同年その遺領のうち備前は池田忠継に,美作は森忠政に与えられ,翌年忠政は18万6500石の領主として入封した。 忠政は新規に津山城を築き,領内の商人,職人たちを集めて城下町を経営した。…

※「森忠政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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