植木庄(読み)うえきのしよう

日本歴史地名大系 「植木庄」の解説

植木庄
うえきのしよう

現直方市の北部、遠賀おんが川左岸の植木を遺称地とし、同所および鞍手くらて新北にぎた新延にのぶなどを含む一帯に比定される庄園。保元二年(一一五七)三月二五日の太政官符(「兵範記」同月二九日条)に「植木庄」とみえ、当庄は保元の乱で敗死した故左大臣(藤原頼長)の所領であったが、乱後に没収されて後白河天皇の後院領となった。建久三年(一一九二)三月、後白河法皇の所領処分に際し当庄を含む後院領などは後鳥羽天皇に譲与され(「玉葉」同年二月一八日条)、そののち当庄は七条院(藤原殖子、後鳥羽天皇母)領となった(安貞二年八月五日「七条院領処分目録案」東寺百合文書/鎌倉遺文六、以下断りのない限り同文書)。承久の乱後、七条院領は一時鎌倉幕府に没収されるが、のちに返上される。元仁二年(一二二五)七条院は当庄(預所職か)などを山城醍醐寺の道厳(父は後鳥羽院の護持僧長厳、母は七条院女房か)に譲るが、当庄年貢のうち五〇石は鳥羽院(七条院)法華堂(現京都市中京区か)に寄進している(同年三月二七日「七条院処分状案」鎌五)。嘉禄二年(一二二六)当庄(預所職)などは門跡相承と定められ(同年六月二三日「七条院譲状案」鎌五)、道厳―門弟道朝―実聖へと相伝されたが、実聖が道朝より先に死去したため、殿法印忠瑜(二条師忠の子か)に譲り直されている(永仁五年三月日「道朝譲状案」鎌二五など)。安貞二年(一二二八)七条院は所領三八ヵ所を修明門院(藤原重子、順徳天皇母)に譲ったが、うち一七ヵ所の本所(領家)職は四辻宮善統親王(順徳天皇の皇子)に止められており、当庄もその一つであった(同年八月五日「七条院処分目録案」鎌六など)。建長三年(一二五一)修明門院は所領を善統親王に譲り(年月日未詳「七条女院領相伝系図」古一〇―二)、当庄の本家・領家両職はともに善統親王のものとなった。善統親王は弘安一〇年(一二八七)猶子の宮僧正深恵に領家職を譲与し(同相伝系図)、正応二年(一二八九)一月一三日、本家職後宇多上皇に譲っている(「善統親王譲状案」鎌二二)


植木庄
うえきのしよう

現植木付近に比定される庄園。殖木庄とも書く。宇美うみ(現宇美町)領。すでに鎌倉時代初期には山城石清水いわしみず八幡宮を本家としている。建久三年(一一九二)三月日付検校成清譲状(石清水文書/鎌倉遺文二、以下断りのない限り同文書)に「殖木」とみえ、当地などが娘の紀女へ譲渡されている。同譲状によれば殖木を含む「房領陸箇所」の所当のうち、「能米伍拾斛」は石清水八幡宮寺薬師堂夏衆供料であった。この供料について正和二年(一三一三)一二月八日、吉原よしはら(現志免町)・殖木の沙汰人・名主らの濫妨の停止を命じた後伏見上皇院宣(新田長次郎蔵石清水文書/鎌倉遺文三二)が八幡検校田中尭清に発給されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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