植木村(読み)うえきむら

日本歴史地名大系 「植木村」の解説

植木村
うえきむら

[現在地名]直方市植木

犬鳴いぬなき川との合流点付近の遠賀おんが川中流左岸に位置する。南は下新入しもしんにゆう村、東は木屋瀬こやのせ(現北九州市八幡西区)、西は中山なかやま(現鞍手町)中世植木庄の遺称地。古くは木屋瀬から宗像郡赤間あかま(現宗像市)へ向かう街道(赤間街道)宿駅で、福岡藩主の行館もあり、町場が形成されていた(続風土記)。藩主行館は黒田長政の時代に建立され、黒田光之の時に廃館となったという(続風土記拾遺)。また村の東部に遠賀(木屋瀬川)と犬鳴川(若宮川)の渡場があった(同書)

小早川時代の指出前之帳では田一三〇町余(分米一千四〇五石余)・畠一〇三町四反余(分大豆六四六石余)


植木村
うえきむら

[現在地名]黒部市植木

北は沓懸くつかけ村、南は三日市みつかいち村、東は荻生おぎゆう村。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。三日市村から沓懸村に通じる入膳にゆうぜん道と通称される北陸街道(下街道)が村の真ん中を南北に走る。「越中志徴」には「文政社号帳に、大樹大明神社。植木村鎮座」とあり、この大樹くぐ社の社名にちなんで植木村と称した。正保郷帳では高一九〇石余、田方一二町四反余・畑方二反、新田高二三一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五〇九石、免三ツ八歩、小物成は野役一〇匁・山役一〇匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の草高・免ともに変わらず(「高免帳」杉木家文書)


植木村
うえきむら

[現在地名]佐賀市鍋島町なべしままち大字蛎久かきひさ字植木

東を多布施たふせ川に接する南北に細長い村で、集落は多布施川の堤防に立地する。文化一四年(一八一七)の郷村帳に南小路・入百姓住居・小路・新村の集落名が記されている。

正平一六年(一三六一)の比丘大久田地寄進状(高城寺文書)によれば、比丘大久が高城こうじよう寺の山門造営修理料として寄進した田地二町のなかに「植木里十四坪壱町」の記述がある。

近世は佐賀本藩の蔵入地で、天保九年(一八三八)の地米(年貢)高は新村三四八石八斗四升九合、本村三二〇石七斗五升五合。


植木村
うえきむら

[現在地名]鎌倉市植木

玉縄たまなわ城跡の南麓に位置し、北は城廻しろめぐり村、東は岡本おかもと村、南は渡内わたうち(現藤沢市)岡本村、西は渡内村に接する。正保国絵図に村名が載る。皇国地誌によるともと付近の村村とともに玉縄村と称していたが、元禄年間(一六八八―一七〇四)に分村したという。天正一七年(一五八九)一二月晦日の北条家朱印状写(県史三)は、「植木新宿」の職人内匠に対して大筒一挺の製作を命じている。藤沢から玉縄城下を経て鎌倉に至る道路が当村を貫いているから、その道路沿いに町が発展し、植木新宿とよばれていたのであろう。


植木村
うえきむら

[現在地名]須恵町植木

若杉わかすぎ山の西に位置し、西は旅石たびいし村、北は本合もつたい村。小早川時代の指出前之帳では植木村の田五一町二反余(分米五八七石余)・畠一六町八反余(分大豆六九石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千二七二石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高九〇三石余、家数五七・寺二・社一、人数三一〇(田圃志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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