日本歴史地名大系 「椎葉山」の解説
椎葉山
しいばやま
椎葉地方は椎葉山もしくは
〔中世〕
南北朝初期と推定される年月日未詳の伊東祐勝書状(大光寺文書)に「しいハろ」とみえる。「しいハろ」は椎葉路のことと考えられ、この頃
〔近世〕
天正一五年豊臣秀吉の国割により日向国は高橋・秋月・伊東・島津各氏で分割支配されることになるが、椎葉山はまだその所属する国自体が確定していなかった。慶長八年(一六〇三)高橋氏と人吉相良氏の間で椎葉山所属をめぐる出入が起こり、結果的に椎葉山は日向国とされた(「歴代参考」相良家文書)。元和五年(一六一九)鷹巣山支配の朱印をめぐる山中の土豪層の対立から椎葉山騒動が起こり、幕府が直接討伐軍を派遣し山中頭分一〇人を含めて一五一人の死罪を出すという希有な事件に発展した(明暦二年「覚」同文書)。騒動後も朱印派と残党の抗争は続いたため、椎葉山は阿蘇神社預を経て(寛延二年「椎葉山由来記写」椎葉家文書など)、明暦二年(一六五六)に人吉藩預地となった(同年四月一八日「江戸幕府老中連署奉書」相良家文書)。人吉藩は椎葉山騒動時に幕府軍の先導役を勤めたため、山中は同藩の支配を不服として延岡藩領内へ九五人が逃散するなどの抵抗をみせている(同年一一月二六日「江戸幕府老中連署奉書」同文書など)。
人吉藩は椎葉山の行政組織として山中を大河内・不土野(向山)・下福良・下松尾の四掛に分け、その下に山中に散在する村が置かれ、数村で組を編成した。この村は一八世紀中頃には八四を数えたが、各村はその地理的条件から数戸しかない場合もあり、孤立散村的様相が強かった。延享三年(一七四六)の椎葉山村数覚(椎葉家文書)によると、下福良掛は三九ヵ村で掛内は五組に分れ、下福良組一一ヵ村・所ヶ八重組七ヵ村・尾八重組九ヵ村・十根川組六ヵ村・五ヶ所組六ヵ村。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報