椎葉山(読み)しいばやま

日本歴史地名大系 「椎葉山」の解説

椎葉山
しいばやま

椎葉地方は椎葉山もしくは那須なす山と称され、「しいばさん」ともよばれた。平家落人伝説でも知られた山間地域である。

〔中世〕

南北朝初期と推定される年月日未詳の伊東祐勝書状(大光寺文書)に「しいハろ」とみえる。「しいハろ」は椎葉路のことと考えられ、この頃穂北ほきた(現西都市)から米良めらを経由して椎葉方面へ向かう道が通っていたらしい。現熊本県水上みずかみ岩野いわのの三田八幡社にある供養塔には、永禄二年(一五五九)肥後人吉領主相良氏と同湯前領主東氏との抗争に加わり敗死した那須兵部太夫の名がみえる。「上井覚兼日記」天正一二年(一五八四)一一月二一日条によると、小崎こざきの奈須左近将監が島津方として出陣しており、同一三年五月二六日には鷹飼育のため島津氏から扶持を与えられている。ほかにも那須党が島津氏から本領を安堵され(同年九月二二日条)、さらに奈須弾正忠が肥後八代で島津義珍(義弘)に陣中見舞いをしている(同一四年八月二七日条)

〔近世〕

天正一五年豊臣秀吉の国割により日向国は高橋・秋月・伊東・島津各氏で分割支配されることになるが、椎葉山はまだその所属する国自体が確定していなかった。慶長八年(一六〇三)高橋氏と人吉相良氏の間で椎葉山所属をめぐる出入が起こり、結果的に椎葉山は日向国とされた(「歴代参考」相良家文書)。元和五年(一六一九)鷹巣山支配の朱印をめぐる山中の土豪層の対立から椎葉山騒動が起こり、幕府が直接討伐軍を派遣し山中頭分一〇人を含めて一五一人の死罪を出すという希有な事件に発展した(明暦二年「覚」同文書)。騒動後も朱印派と残党の抗争は続いたため、椎葉山は阿蘇神社預を経て(寛延二年「椎葉山由来記写」椎葉家文書など)、明暦二年(一六五六)人吉藩預地となった(同年四月一八日「江戸幕府老中連署奉書」相良家文書)。人吉藩は椎葉山騒動時に幕府軍の先導役を勤めたため、山中は同藩の支配を不服として延岡藩領内へ九五人が逃散するなどの抵抗をみせている(同年一一月二六日「江戸幕府老中連署奉書」同文書など)

人吉藩は椎葉山の行政組織として山中を大河内・不土野(向山)・下福良・下松尾の四掛に分け、その下に山中に散在する村が置かれ、数村で組を編成した。この村は一八世紀中頃には八四を数えたが、各村はその地理的条件から数戸しかない場合もあり、孤立散村的様相が強かった。延享三年(一七四六)の椎葉山村数覚(椎葉家文書)によると、下福良掛は三九ヵ村で掛内は五組に分れ、下福良組一一ヵ村・所ヶ八重組七ヵ村・尾八重組九ヵ村・十根川組六ヵ村・五ヶ所組六ヵ村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の椎葉山の言及

【宮崎[県]】より

…1868年(明治1)旧天領は富高県となり,次いで日田県に併合され,71年豊後の延岡藩領と換地された。また人吉藩預りの椎葉山(しいばやま)諸村は1868年日田県,71年人吉藩の所管となった。同年の廃藩置県を経て,大淀川を境に日向北部は美々津(みみつ)県に,南部は大隅国6郡とともに都城(みやこのじよう)県に統合・整理された。…

※「椎葉山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」