楠本イネ(読み)くすもとイネ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楠本イネ」の意味・わかりやすい解説

楠本イネ
くすもとイネ

[生]文政10(1827).5.6. 長崎
[没]1903.8.26. 東京
女医で P.シーボルトの娘。失本 (しいもと) ともいう。 19歳で伊予に行き,二宮敬作外科を学び,弘化2 (1845) 年,岡山で石井宗謙産科を学ぶ。嘉永5 (1853) 年,石井との間のタカを出産。同4年から安政1 (1854) 年まで長崎で阿部魯庵に産科,外科を学び,同年宇和島に行って二宮および村田蔵六 (大村益次郎) に蘭学および産科を学ぶ。文久1 (1861) 年,シーボルトの再来日のため長崎に戻って開業のかたわら,長崎養生所の J. L. C.ポンペなど歴代のオランダ人教師の講義を受け,明治3 (1870) 年上京。 1877年まで築地で産科を開業。 1873年,権典侍葉室光子の懐妊の際,宮内省御用掛に任命されてその出産を扱った。

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朝日日本歴史人物事典 「楠本イネ」の解説

楠本イネ

没年:明治36.8.26(1903)
生年:文政10(1827)
明治初期,日本最初の洋方産科女医。出島のオランダ商館医シーボルトと楠本タキの長女戸籍では楠本新兵衛の長女。実父シーボルトの依頼で門人高良斎,二宮敬作,石井宗謙らに育てられ,長崎養生所雇教師ポンペ,ボードイン,マンスフェルトにも学ぶ。明治3(1870)年長崎銅座町55番戸に開業。12年後上京し,宮中産科医となる。父シーボルトの開いた鳴滝塾の塾舎は,明治7年に台風で破損し,その20年後にイネが解体,跡地は売却されていたが,イネはこれを再購入し楠本家の永代所有を企図した。大正11(1922)年,同地は国指定の史蹟となった。なお,イネは一時,父の姓に漢字を当て矢本稲と名乗っている。<参考文献>呉秀王『シーボルト先生その生涯及び功業

(中西啓)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「楠本イネ」の解説

楠本いね くすもと-いね

1827-1903 幕末-明治時代の医師。
P.F.シーボルトの娘。母は肥前長崎丸山の遊女其扇(そのぎ)(本名楠本たき)。文政10年5月6日長崎出島で生まれる。父の門人二宮敬作に外科,石井宗謙に産科をまなび,宗謙との間に娘たか子をもうける。明治3年西洋医学によるわが国最初の女性の産婦人科医として東京築地に開業。宮内省御用掛もつとめた。明治36年8月26日死去。77歳。名は伊禰(いね),稲ともかく。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「楠本イネ」の解説

楠本 イネ (くすもと いね)

生年月日:1827年5月6日
江戸時代;明治時代の医師。産婦人科;宮内庁御用掛
1903年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の楠本イネの言及

【シーボルト】より

…同行来日した長男アレクサンダーはイギリス駐日公使館員となり,次いで明治政府の外務省に雇用された。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)との間にできた娘いねは,楠本いねといい,のち女医となった。彼の《江戸参府紀行》は《異国叢書》と《東洋文庫》に収録され,《シーボルト日本交通貿易史》も《異国叢書》に収録されている。…

※「楠本イネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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