日本大百科全書(ニッポニカ) 「アーベル」の意味・わかりやすい解説
アーベル(Niels Henrik Abel)
あーべる
Niels Henrik Abel
(1802―1829)
ノルウェーの数学者。フィンドエに生まれる。父は牧師で生活は質素なものであった。1815年に首都クリスティアニア(現、オスロ)の中学校へ入学、1818年に新任のホルンボエMichael Holmboe(1795―1850)が教えるようになってからは、アーベルの進歩は著しかった。1823年クリスティアニア大学を卒業したが在学中に父が他界したので生活は苦しかった。1824年『一般の五次方程式が解けないことを証明した代数方程式に関する論文』Mémoire sur les équations algébriques où on démontre l'impossibilité de la résolution de l'équation générale du cinquième degréを自費で出版した。次数が与えられた方程式のなかで代数的に解けるものをことごとくみつけることと、与えられた方程式が代数的に解けるかどうかを定めること、の二つを取り扱ったものである。しかしガウスが1799年に「すべての代数方程式は解ける」ことを証明していたため、「一般の五次方程式は解けない」という表題では、だれも見向きもしなかった。
1825年にドイツへ留学生として渡ったが、五次方程式の論文を黙殺したガウスを恨み、彼のいるゲッティンゲンを避けてベルリンへ行った。ここでクレレの知遇を受けた。クレレは数学者というよりも政府の要人で、若い数学者にサロンを提供していた。このサロンに集まる数学者の影響を受けたと思われるが、もしゲッティンゲンに行き、ガウスに自分の論文を説明していたら、アーベルの運命は変わっていたであろうと考えると、ベルリンへ行ったことはむだなことであったように思われる。
1826年にパリへ移った。楕円(だえん)積分が定義する関数の逆関数を考えて、これが二重周期をもつことを示し、楕円関数を導入していたので、楕円積分の研究者ルジャンドルに会うのが目的であった。10月10日にパリ科学アカデミーへこれを拡張した論文(後世ではパリの論文とよんでいる)を提出した。審査を委嘱されたのはコーシーであるが、机の中に入れたまま忘れてしまった。1827年5月20日に帰国した。貧困と闘いながら楕円関数と代数方程式の研究に没頭した。後者の研究において可換群が現れるが、これを後世、初めて導入した研究者の名を冠してアーベル群とよんでいる。1828年のクリスマスに、愛人ケンプChristine Kempfを訪ね、その日に病に倒れた。1829年1月6日付けのクレレあての手紙でパリの論文の梗概を述べ、クレレはこれを発表した。アカデミーは論文を探し、アカデミー賞授与を決めたが、それは彼の死の翌年(1830)であった。
[小堀 憲]
アーベル(Othenio Abel)
あーべる
Othenio Abel
(1875―1946)
オーストリアの古生物学者。ウィーン生まれ。ウィーン大学を卒業し、母校やゲッティンゲン大学で古生物学の教鞭(きょうべん)をとった。『脊椎動物古生物学綱要(せきついどうぶつこせいぶつがくこうよう)』Grundzüge der Paläeobiologie der Wirbeltiere(1912)をはじめ多くの重要な著書を残した。とくに鳥類やウマ、ゾウなどの系統進化を研究し、適応や段階系列などについての考えを公表した。古生物の形態・形質と環境との関係に注目し、器官の退行的な特殊化を下向進化catagenesisとよび、上向進化anagenesisに対立させた。また化石貝類や骨の奇型・病型などにも注目し、『過去の生物の痕跡(こんせき)』Vorzeitliche Lebensspüren(1935)によって、初めて生痕化石の古生態復原への意義を指摘し、生痕学ichnologyの体系化を試みた。
[大森昌衛]