ノルウェーの数学者。フィンドエに生まれる。父は牧師で生活は質素なものであった。1815年に首都クリスティアニア(現、オスロ)の中学校へ入学、1818年に新任のホルンボエMichael Holmboe(1795―1850)が教えるようになってからは、アーベルの進歩は著しかった。1823年クリスティアニア大学を卒業したが在学中に父が他界したので生活は苦しかった。1824年『一般の五次方程式が解けないことを証明した代数方程式に関する論文』Mémoire sur les équations algébriques où on démontre l'impossibilité de la résolution de l'équation générale du cinquième degréを自費で出版した。次数が与えられた方程式のなかで代数的に解けるものをことごとくみつけることと、与えられた方程式が代数的に解けるかどうかを定めること、の二つを取り扱ったものである。しかしガウスが1799年に「すべての代数方程式は解ける」ことを証明していたため、「一般の五次方程式は解けない」という表題では、だれも見向きもしなかった。
1825年にドイツへ留学生として渡ったが、五次方程式の論文を黙殺したガウスを恨み、彼のいるゲッティンゲンを避けてベルリンへ行った。ここでクレレの知遇を受けた。クレレは数学者というよりも政府の要人で、若い数学者にサロンを提供していた。このサロンに集まる数学者の影響を受けたと思われるが、もしゲッティンゲンに行き、ガウスに自分の論文を説明していたら、アーベルの運命は変わっていたであろうと考えると、ベルリンへ行ったことはむだなことであったように思われる。
1826年にパリへ移った。楕円(だえん)積分が定義する関数の逆関数を考えて、これが二重周期をもつことを示し、楕円関数を導入していたので、楕円積分の研究者ルジャンドルに会うのが目的であった。10月10日にパリ科学アカデミーへこれを拡張した論文(後世ではパリの論文とよんでいる)を提出した。審査を委嘱されたのはコーシーであるが、机の中に入れたまま忘れてしまった。1827年5月20日に帰国した。貧困と闘いながら楕円関数と代数方程式の研究に没頭した。後者の研究において可換群が現れるが、これを後世、初めて導入した研究者の名を冠してアーベル群とよんでいる。1828年のクリスマスに、愛人ケンプChristine Kempfを訪ね、その日に病に倒れた。1829年1月6日付けのクレレあての手紙でパリの論文の梗概を述べ、クレレはこれを発表した。アカデミーは論文を探し、アカデミー賞授与を決めたが、それは彼の死の翌年(1830)であった。
[小堀 憲]
オーストリアの古生物学者。ウィーン生まれ。ウィーン大学を卒業し、母校やゲッティンゲン大学で古生物学の教鞭(きょうべん)をとった。『脊椎動物古生物学綱要(せきついどうぶつこせいぶつがくこうよう)』Grundzüge der Paläeobiologie der Wirbeltiere(1912)をはじめ多くの重要な著書を残した。とくに鳥類やウマ、ゾウなどの系統進化を研究し、適応や段階系列などについての考えを公表した。古生物の形態・形質と環境との関係に注目し、器官の退行的な特殊化を下向進化catagenesisとよび、上向進化anagenesisに対立させた。また化石貝類や骨の奇型・病型などにも注目し、『過去の生物の痕跡(こんせき)』Vorzeitliche Lebensspüren(1935)によって、初めて生痕化石の古生態復原への意義を指摘し、生痕学ichnologyの体系化を試みた。
[大森昌衛]
ノルウェーの数学者。ルーテル派の牧師の家に生まれ,貧困と結核とによって,27年にも満たない生涯を終えたが,その短い人生の間にたいへん大きな業績を残した。クリスティアニア大学(現,オスロ大学)で学び,1823年末,五次以上の一般の方程式が代数的には解けない(係数から出発して,四則演算とべき根をとる演算で根を表すことができない)ことを証明した。25年よりドイツ,フランスに留学,ベルリンではA.L.クレレと知り合い,数学雑誌《Journal für reine und angewandte Mathematik》(クレレ誌ともいう)の創刊に協力し,また多くの論文をこの雑誌に発表した。その後オーストリア,イタリアと研究旅行を続け,26年パリに入り,ここで楕円関数に関する論文を書き,当時A.L.コーシーが審査委員をしていたアカデミー・デ・シアンスに提出したが,かえりみられなかった。27年帰国後も楕円関数に関する論文を発表,楕円積分の逆関数として楕円関数を導入し,楕円関数論を築いた。後にアーベル方程式(ガロア群がアーベル群であるような代数方程式)が代数的に解けることも証明したが,それは彼の楕円関数論の副産物と思われる。また各項が連続関数であるような無限級数は必ずしも連続関数であるとは限らないことを指摘して,一様収束の概念を導入した。
執筆者:永田 雅宜
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…群において,その演算が可換(乗法ならばab=ba,加法ならばa+b=b+aが,すべての2元a,bについて成立)であるとき,その群は可換群またはアーベル群Abelian groupであるという。N.H.アーベルが代数的に解ける方程式について研究した際に,ガロア群が可換群になるような拡大が扱われたので,この名があるという。…
… 数の加法や乗法の場合には,条件(5)交換法則,すなわちa*b=b*aが満たされている。このような場合,可換群またはアーベル群と呼ぶ。今後,この項では群の演算の記号は省略して,積はabのようにかく。…
…19世紀の中期になって,P.G.L.ディリクレが関数を数から数への対応として定義したことにより,一般の関数の概念が初めて確立された。また,コーシーの時代には極限の概念は確立していても一様収束の概念がなかったため,いくつかの誤った結果が導かれたが,N.H.アーベルによる一様収束の概念の発見によってそれらの問題点が明確になり,誤りは正された。続いてG.F.B.リーマンは,積分の定義を反省してそれを一般にした論文を発表し(1854),さらにG.カントルは無理数論ならびに集合論を創始した(1872)。…
… 代数学では,16世紀のイタリアで四次までの代数方程式が四則と開方で解かれていたが,五次以上の場合に同様の解法を得るための多くの数学者の試みは徒労に帰した。N.H.アーベルは1826年その不可能なことを証明し,E.ガロアはこの問題と方程式の根の置換群との関連を見抜いて,いわゆる〈ガロアの理論〉を創始した。そのころから抽象代数学の最初の部門としての群論が登場することになる。…
※「アーベル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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