カニング(読み)かにんぐ(英語表記)George Canning

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カニング」の意味・わかりやすい解説

カニング(George Canning)
かにんぐ
George Canning
(1770―1827)

イギリスの政治家。1793年に下院議員となり、フランス革命に反対するピット(小)を支持した。1807年にポートランド内閣の外相となったが、陸相カースルレーと対立し辞任(1809)して以後は、インド担当相(1816~1821)を務めたものの、政局を指導する立場にはなかった。反動派とされたカースルレーの死(1822)後、再度外相となり、中南米諸国の独立を支持するなど、ウィーン体制を離れて自由主義的な外交政策カニング外交といわれる)を展開した。これ以後トーリー党内閣の政策内政、外交の両面で自由主義化し、1827年には辞任したリバプール首相の後任として、ホイッグ党の一部の協力も得て内閣を組織したが、4か月後に病没した。

青木 康]


カニング(Charles John Canning)
かにんぐ
Charles John Canning
(1812―1862)

イギリスの政治家。ジョージ・カニングの子。1841年にロバート・ピール内閣の外務次官、1856年パーマストンによりインド総督(~1862)に任命された。1857年、インドの大反乱セポイの反乱)に直面し、兵力を増強してこれを鎮圧。翌1858年インド統治が東インド会社から本国政府の直接支配に移ると、初代インド副王(総督)となった。1859年7月の反乱終結宣言後、行政の再組織化、軍隊改組着手。1861年にインド参事会法を導入し、地主を中心とする一部インド人を中央・州立法参事会に加えたり、上層部インド人の団体「英印協会」の結成を助けたりして、インド社会の指導的階層の宥和(ゆうわ)策を推進した。1857年にカルカッタ、ボンベイ(現ムンバイ)、マドラス3大学創設に尽力した。

[内藤雅雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カニング」の意味・わかりやすい解説

カニング
Canning, George

[生]1770.4.11. ロンドン
[没]1827.8.8. ロンドン
イギリスの政治家。 1793~1827年下院議員。ピット (小)の政策を支持,1796~99年外務次官。 1807~09年ポートランド公内閣の外相。 16~21年リバプール伯内閣のインド監督局総裁。カスルレー (子)のあとをうけて再度外相 (1822~27) となり,神聖同盟の反動的な動きから離れた外交政策を展開。ラテンアメリカ諸国の民族主義運動には不干渉策をとり,23年旧スペイン領諸国の独立を承認。ギリシアのトルコに対する抵抗やポルトガルの民主派の活動など,ヨーロッパ内の自由主義的な動きを支援した。内政では自由貿易支持,W.ハスキソンと協力して穀物法の緩和に努力。議会改革には反対したが,自由主義的な彼の政治姿勢はホイッグ党からも支持を得た。 27年4月首相。まもなく病没。

カニング
Canning, Charles John, Earl Canning

[生]1812.12.14. ロンドン
[没]1862.6.17. ロンドン
イギリスの政治家,インド初代副王。 G.カニングの3男。 1836年下院議員となり,41年外務次官,56年インド総督に就任した。着任直後の 57年インド大反乱が起り,58年夏にはその鎮圧に成功。同年8月インド統治改善法が発布され,インド統治はイギリス東インド会社からイギリス王室の手に移り,カニングは初代副王とされた。 59年伯爵を授けられる。反乱の反省から,彼は各種の改革に着手し,軍隊の再編成,財政再建のための新税制の導入,小作人保護のための地代法の制定,裁判所機構の改組などを行なった。また 61年の参事会法によりインド人に官界への道を開くなど,親英層の育成に努めた。 62年退官。

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