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二宮敬作 ニノミヤケイサク

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デジタル大辞泉の解説

にのみや‐けいさく【二宮敬作】

[1804~1862]江戸末期の蘭方医。伊予の人。号、如山。長崎でシーボルトに師事。シーボルト帰国後は宇和島藩医として種痘の普及などに尽力。

出典|小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

二宮敬作 にのみや-けいさく

1804-1862 江戸時代後期の蘭方医。
文化元年5月10日生まれ。長崎でシーボルトに師事。師の江戸参府に随行したとき,西洋式の方法で富士山の高さを測定。文政11年シーボルト事件に連座して入獄。出獄後郷里の伊予(いよ)(愛媛県)宇和島で開業し,宇和島藩医となる。シーボルトの娘の楠元イネを養育。また逃亡中の高野長英をかくまった。文久2年3月12日死去。59歳。号は如山。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

二宮敬作

没年:文久2.3.12(1862.4.10)
生年:文化1.5.10(1804.6.17)
江戸後期の蘭方医。伊予国宇和郡磯崎浦(愛媛県保内町)生まれ。号は如山。文政2(1819)年長崎の吉雄塾に入り,また美馬順三について蘭方医学を修めた。続いて蘭館医シーボルトに入門し,江戸参府に随行して富士山を測量。同11年シーボルト事件に連座し,長崎から所払いを命ぜられ郷里に帰った。宇和島藩主伊達宗紀に認められ,卯之町で開業。外科手術にすぐれた名医として知られ,診療のかたわら蘭語教授,蘭書翻訳を行った。安政2(1855)年宇和島藩医。脱獄してきた高野長英 を宇和島でかくまった。シーボルトの帰国時,その娘(楠本イネ)の養育を寄託された。同6年シーボルト再来に当たり,病をおして長崎で再会した。長崎で没し,同地の皓台寺にイネが墓碑を建立,また宇和島卯之町の光教寺に遺髪塔がある。<参考文献>『愛媛県医師会史医人伝』

(福島義一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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大辞林 第三版の解説

にのみやけいさく【二宮敬作】

1804~1862) 江戸末期の蘭方医。伊予の人。長崎に出てシーボルトの弟子となり、シーボルト事件に連座。のち、宇和島で医業を開く。種痘の普及につとめた。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

二宮敬作
にのみやけいさく
(1804―1862)

江戸末期の蘭方(らんぽう)医。伊予国(愛媛県)宇和島の人。号は如山。1819年(文政2)長崎に出て蘭学を学び、1823年P・F・B・シーボルトにオランダ医学を学ぶ。以後、つねにシーボルトの身辺にいて調査・翻訳にあたり、江戸参府にも随行している。1826年にはシーボルトの指示で気圧計を用い、富士山の高さを測っている。西洋式の高度測量を試みたのは、彼が初めてである。シーボルト事件に連座、一時入獄。シーボルト帰国後、その娘いね(伊禰、1827―1903)を世話した。1830年(天保1)帰郷して開業し、宇和島藩医となり、種痘の普及に尽力した。1857年(安政4)長崎に出て開業。1859年シーボルトの再渡来に際し、再会した。[片桐一男]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の二宮敬作の言及

【伊予国】より

…宇和島藩は伊達宗城(むねなり)がさかんに蘭学を摂取した。嘉永年間に高野長英,村田蔵六(大村益次郎)が来藩し,藩内にはシーボルトの弟子二宮敬作とその甥三瀬周三(諸淵(もろぶち))がいた。シーボルトの娘いねも宇和島に来住し,幕末の宇和島藩の蘭学・洋学は花開いた観がある。…

※「二宮敬作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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