楠甫村
くすほむら
[現在地名]六郷町楠甫
岩間村の西、富士川が東から西に屈曲して弧を描く地点の東岸沿いに位置する。北は羽鹿島村(現鰍沢町)と富士川を隔てて箱原村(現同上)、南は同川を隔てて西島村(現中富町)。駿州往還の両越渡は箱原村―当村―西島村と富士川を二度渡った。永禄一四年(元亀二年、一五七一)三月一二日の穴山信君印判状(竜雲寺文書)に、竜雲寺(現身延町)領として「楠浦村之内五貫五百文」とあるが、この文書は検討を要する。甲斐守護武田信昌の側近で、信縄・信虎三代に仕えた楠甫清三(刑部少輔)がおり、当地との関係が推察される。このほか一族と思われる楠浦修理進重春は、武田信昌の代官として八代郡石橋郷(現境川村)を管理し、また石橋八幡宮(現同上)の造営に関与したとされ(甲斐国志)、永禄八年六月吉日に武田義信が甲斐二宮美和神社(現御坂町)へ太刀を奉納した際に、楠浦若狭守虎常がともに太刀一腰を奉納している(「甲州二宮造立帳」美和神社文書)。
楠甫村
くすぼむら
[現在地名]有明町楠甫
上島の北端に位置し、北方に大矢野島を望む。村の東・南・西を老岳山系の星が岳・梶木山・宮地岳が取巻く。中世の頃は有明海が奥深く湾入し、入江の奥に城ン山とよばれる中世山城の遺構が残る。城ン首の地名も現存する。「古城考」には「大矢野城 楠甫村にあり、大矢野氏代々居城す」とある。中世寺跡とされる大円寺跡などに五輪塔・宝塔が散在する。
慶長国絵図に村名がみえる。元和三年(一六一七)のイエズス会士コーロス徴収文書(「近世初期日本関係南蛮史料の研究」所収)の上津浦村の項に「惣代楠甫勝介上うせ」の署名があり、当時上津浦村のレジデンシア(宣教師駐在所)の管轄下にあったと推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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