岩間村(読み)いわまむら

日本歴史地名大系 「岩間村」の解説

岩間村
いわまむら

[現在地名]六郷町岩間

現六郷町の中央西部、富士川左岸岩間平に立地する。駿州往還の旧道が通り、宿場であった。横間栗よこまくりはらしおさわの三集落がある(甲斐国志)。中世には一帯石間いわま牧が成立していた。天文一一年(一五四二)正月一日の穴山信友判物(一宮賀茂神社文書)に「岩間」とみえ、岩間惣領分の手作のうち二反を下山しもやま(現身延町)の一宮(現一宮賀茂神社)・二宮(現二宮賀茂神社)の両宮に寄進している。永禄四年(一五六一)九月二一日、穴山信君は岩間庄内二〇貫文ほかを鈴木四郎忠光に宛行っている(「穴山信君感状」鈴木進家文書)。同九年三月一六日、穴山信君は「岩間の内湯之岡分」の当秋からの年貢を依田源三郎に与えている(「穴山信君判物写」甲州古文書)

岩間村
いわまむら

[現在地名]福知山市字岩間

由良川に東南から合流する土師はぜ川の下流左岸にあり、六人部むとべ谷の出口にあたる。東南は田野たの村、西はほり村、南は塩津しおつ峠を含む山稜で氷上ひかみ竹田たけだ(現兵庫県氷上郡市島町)に境し、北は土師川を隔てて長田おさだ村に対する。集落は高い段丘上にあり、東方に五〇〇―六〇〇メートル離れて小字小野おのがある。

「丹波志」には、

<資料は省略されています>

とある。

昭和二七年(一九五二)小野の開墾地で半円形環状石器(直径一〇センチ、半分は欠損)をはじめ須恵器の破片が拾得された。前面に広い長田の田圃を見下ろす景勝の地である。

岩間村には本村に六人部七天神(→天神神社のうちのろくやしろがあり、面足尊・惶根尊を、小野にしちやしろがあり、伊弉諾尊伊弉冊尊を祀っていたが、明治になって七ノ社を六ノ社へ合併した。

岩間村
いわまむら

[現在地名]いわき市岩間町

さめ川河口北岸、菊多きくた浦に面する。西は佐糠さぬか村、東は小浜おばま村。宝治二年(一二四八)閏一二月日の陸奥国司庁宣案(三坂文書)に「可令早為地頭岩間次郎隆重沙汰進済岩城余部内岩間霰松両村巡見御」とあり、地頭岩間隆重が岩間村と霰松あられまつ村から御馬の代りとして絹を進納している。霰松村は現在地不明。また岩間村は当地でなく、平中平窪たいらなかひらくぼの字岩間であるとする説もある。

岩間村
いわまむら

[現在地名]西土佐村岩間

用井もちい村の南、ふじかわ村の西南、四万十しまんと川左岸に位置し、藤ノ川村とはみずの峠で結ばれる。下山しもやま下分しもぶんの一村。対岸西北は津野川つのかわ村、南は茅生かよう村。「土佐州郡志」は「連津野川村、川北之地也、東西十五町南北一町許、戸凡二十三、其土多砂」と記し、「西巡紀行」は当地の川面の光景を「至此水漸大流又漫、数船揚帆而下朝霧埋山河、風帆出没霧中」と描く。

天正一七年(一五八九)の下山郷地検帳に岩間村および岩間川村がみえ、当村にあたると考えられる。

岩間村
いわまむら

[現在地名]岡山市米田よねだ

東流する百間ひやつけん川を挟んで神下こうのした村の対岸南にあり、笠井かさい山北東端山麓にあたる。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一七八石余、正保郷帳には水損中と注記がある。「備前記」によると山寄りの集落で、「備陽記」では田畑一二町六反余、家数三四・人数一六八。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高三三二石余、蔵入と家臣三人の給地。田高一七五石余・九町一反余、畑高三一石余・三町四反余、家数三一・人数一三八、牛一二、出家三・社方一軒(人数六)、樋四、石橋二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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