日本大百科全書(ニッポニカ) 「榊原鍵吉」の意味・わかりやすい解説
榊原鍵吉
さかきばらけんきち
(1830―1894)
幕末~明治の剣術家。名は友善(ともよし)。小禄(しょうろく)の幕府御家人(ごけにん)の出身。13歳のとき直心影(じきしんかげ)流男谷(おだに)精一郎の門に入り、たちまち頭角を現した。1856年(安政3)講武所剣術教授方となり、60年(万延1)築地(つきじ)から小川町に移転した講武所の開場式の際、模範試合で槍術(そうじゅつ)方の高橋伊勢守(いせのかみ)(後の泥舟(でいしゅう))を打ち込んで名をあげた。61年(文久1)将軍家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を警護して、その信任を受け、64年(元治1)剣術師範役並(なみ)、両御番上席(りょうごばんじょうせき)に進んだ。66年(慶応2)幕府の兵制改革によって遊撃隊頭取(とうどり)に転じたが、まもなく辞任して、下谷車坂(したやくるまざか)の自宅に道場を設け、もっぱら剣術を指南した。明治維新後、廃藩置県・廃刀令などにより剣術が急激に衰微したのを憂え、73年(明治6)撃剣興行を創設した。また78年上野公園の武術天覧には、その総指揮となり、ついで87年伏見(ふしみ)宮邸において兜(かぶと)割りの特技を天覧に供して名声を博した。
[渡邉一郎]