コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

男谷精一郎 おだにせいいちろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

男谷精一郎
おだにせいいちろう

[生]文化7(1810).1. 江戸
[没]元治1(1864).7. 江戸
江戸時代末期の剣客。下総守。名は信友。号は静斎。団野真帆斎に師事,直心影流の剣法を学び,兵法,槍術,射術にも長じた。江戸本所の道場は幕末最大の格式をもち逸材を輩出。彼の建議により安政2 (1855) 年講武所が創設されると,その頭取となり,幕臣子弟や諸藩士に剣,槍,砲を教えた。のち講武所剣術師範役,西丸 (にしのまる) 留守居役,講武所奉行並となった。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

おだに‐せいいちろう〔をだにセイイチラウ〕【男谷精一郎】

[1798~1864]江戸後期の幕臣・剣客直心影(じきしんかげ)流の達人で、江戸に道場をもつ。のち、講武所頭取兼剣術師範役をつとめ、後世剣聖と呼ばれた。

出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

男谷精一郎【おだにせいいちろう】

江戸末期の幕臣,剣客。下総守(しもうさのかみ)。名は信友。静斎と号す。団野真帆斎に直心影流(じきしんかげりゅう)の剣法を,平山行蔵軍学を学び,槍術弓術もよくした。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

男谷精一郎 おだに-せいいちろう

1798-1864 江戸時代後期の剣術家。
寛政10年1月1日生まれ。平山子竜(しりょう)に兵法を,団野真帆斎(しんぱんさい)に直心影(じきしんかげ)流をまなび,江戸本所に道場をひらく。幕府の軍事強化のため講武所開設を建議,安政3年講武所頭取兼剣術師範役,のち講武所奉行並となった。弟子に榊原鍵吉(さかきばら-けんきち)ら。元治(げんじ)元年7月16日死去。67歳。幼名は新太郎。名は信友。

出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

男谷精一郎

没年:元治1.7.16(1864.8.17)
生年:寛政10(1798)
江戸後期の幕臣,剣客。男谷信連の長男。江戸生まれ。幼名新太郎,諱は信友,雅号は静斎,蘭斎。20歳で同族男谷思孝の養子となり,小十人頭となる。幼少から文武に励んだが,特に平山行蔵に兵学を学び,時勢に深い見識を持った。のち団野源之進(真帆斎)について直心影流を修め,江戸の本所亀沢町で道場を持ち,多くの門人を教えた。剣にとどまらず修行意欲をもち,楠木正成,諸葛孔明などの誠忠を尊び,書画をよくしたことなどは,行蔵の感化によるところが大きい。34歳で書院番になり,老中水野忠邦に剣技を賞せられ,幕臣間に有名となった。時勢を憂えて幕府にしばしば武芸奨励を建議。安政2(1855)年講武場(3年講武所と改称)が設置されるや頭取となった。文久1(1861)年先手頭格となり,翌年従五位下下総守に叙任。御旗奉行,講武所奉行並と昇進した。江戸深川増林寺に葬られる。<参考文献>山田次郎吉『日本剣道史』

(中井一水)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

江戸・東京人物辞典の解説

男谷精一郎

1798〜1864(寛政10〜元治元)【剣客】幕末の剣豪は、意外にも勝海舟従兄弟。 江戸後期の旗本・剣客。信友とも。直新影流を学び、江戸本所に道場を持った。幕府へ講武策を建白、国防機関となる講武所が設置されると、頭取役、剣術師範を命じられた。1864年男谷は没し、その2年後講武所も廃止された。後世、剣聖と呼ばれる。ちなみに、男谷家は、精一郎の祖父・平蔵の息子の一人が旗本勝家の養子に入り、勝小吉となった。つまり勝海舟とは従兄弟同志になる。

出典|財団法人まちみらい千代田江戸・東京人物辞典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

おだにせいいちろう【男谷精一郎】

1798‐1864(寛政10‐元治1)
幕末の剣聖といわれた剣術家。直心影流13代。兵学,槍術など武芸のほか,書画にも優れ,教養,人格とも抜群の風格ある剣客。精一郎は通称で正式には下総守信友。静斎,蘭斎と号す。1855年(安政2)幕府の講武所開設とともに頭取ならびに教授方となり,多数の剣術家を育成。62年(文久2)下総守叙任,のち御旗奉行,講武所奉行となる。弟子に島田虎之助,榊原鍵吉,横川七郎らがおり,勝海舟とはいとこどうしである。清廉潔白,温厚で,他流試合に敗れたことは一度もなかったが,生涯1人も人を斬らなかったといわれる。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

おだにせいいちろう【男谷精一郎】

1798~1864) 江戸末期の剣術家。名は信友。静斎と号した。勝海舟の従兄。直心影じきしんかげ流を修め、槍術・弓術にも通じた。人格すぐれ、剣聖といわれた。弟子に島田虎之助ほかの剣術家がいる。

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

男谷精一郎
おだにせいいちろう
(1798―1864)

江戸末期の剣術家。幕臣、講武所頭取兼剣術師範役。幼名新太郎、通称精一郎、名は信友(のぶとも)、静斎(せいさい)と号した。幼少より文武を好み、13歳のとき平山行蔵(ぎょうぞう)の兵原草廬(へいげんそうろ)の内弟子となり、実戦的武術に対する目を開かれ、1817年(文化14)に直心影(じきしんかげ)流の団野源之進(だんのげんのしん)(真帆斎(しんぱんさい))の門に入り、わずか4年で免許皆伝を得、さらに宝蔵院槍術(そうじゅつ)、吉田流弓術にも達し、21年(文政4)刊の「御府内兵法名家番付」には上々吉と評されて関脇に据えられ、将来を大いに嘱望された。一方、養父彦四郎(燕斎(えんさい)、表(おもて)御祐筆)の薫陶を受けて、文学や書画をたしなみ、その円満な人格と指導力により、小十人(こじゅうにん)100俵高の小身から出世し、31年(天保2)御書院番、43年には御徒頭(おかちがしら)に進んだ。ペリーの来航後、幕府の軍事力強化のために講武場を設置することを建議し、56年(安政3)講武所の開設とともに頭取並(とうどりなみ)兼剣術師範役に起用され、62年(文久2)には従(じゅ)五位下・下総守(しもうさのかみ)に叙任され、翌年講武所奉行並(ぶぎょうなみ)(3000石高)に昇任した。なお、本所亀沢町の男谷道場からは島田虎之助、三橋虎蔵、横川七郎、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)らの有名な剣術家が輩出し、後世「剣聖」の名で敬慕されている。[渡邉一郎]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

367日誕生日大事典の解説

男谷精一郎 (おだにせいいちろう)

生年月日:1798年1月1日
江戸時代末期の幕臣;剣術家;講武所奉行並
1864年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

男谷精一郎の関連キーワード高柳又四郎生年月日男谷燕斎男谷信友空の剣大石進射術

今日のキーワード

アウフヘーベン

ヘーゲル弁証法の基本概念の一。あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること。止揚。揚棄。→アン‐ウント‐フュール‐ジッヒ →弁証法...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android