榎原村
えばらむら
[現在地名]福知山市字榎原
福知山盆地の西部、榎原川の河谷を占める。平安時代には白河天皇の御願寺法勝寺(跡地は現京都市左京区)領榎原庄の地。その後皇室領(大覚寺統)として伝領されたが、嘉元四年(一三〇六)昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)では恩徳院領として「榎原庄房仙法印預 房暁法印御年貢千疋」とみえ、永和元年(一三七五)一一月二六日に北朝が大嘗会米を免じた諸荘の一つに榎原庄の名がみえている(東寺文書)。
榎原村
えのきはらむら
下高砂村の西にある。西から南は上八田村(現白根町)に続き、原七郷の扇状地上にある。もと上八田村と同村であったという(甲斐国志)。北を前御勅使川が流れ、東部は扇状地末端浸食崖下の低地で同川氾濫原の砂礫地。居村は扇状地上にあり、大塚・二ッ塚・藤塚などの地名が残っていた。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)には榎木原之郷とあり、畑九町七反余、ほかに熊三永荒一七町七反余があった。屋敷は四筆・四五〇坪で、居村の中央の石丸は彦平・善兵衛・半兵衛の鍛冶屋敷であった。ここが当村の発祥地と思われ、現在も石丸の姓が多い。畑中に室町末期作と推定される石丸地蔵が立っており、石丸一族の守護仏として信仰されてきた。
榎原村
えのきはらむら
[現在地名]和歌山市榎原・松江北三―四丁目
海部郡に属し木ノ本村の南東に位置する。東は名草郡中野村、南は同郡松江村。「続風土記」は「此村土地甚卑く歳々水の患に罹るといふ」と記す。中世は木本庄に含まれた。寛永年間(一六二四―四四)に木ノ本村から分れ(続風土記)、「続風土記」では高五六五石余、家数五二、人数二七一。
榎原村
えのきばるむら
[現在地名]菊水町榎原
東境を菊池川支流の焼米川が流れ、西と北は高野村、南は萩原村と接する。近世は内田手永に属する。「国誌」の焼米村の項に「榎原村高百四石六斗余当村ノ内也、即今属此村」とある。天保五年(一八三四)の内田手永手鑑によると田四町三反四畝余・畑四町八反五畝余。明治一一年(一八七八)の戸数一七・人数七七、馬一四、日本型船一(五〇石未満漁舟)、水車一があり、楮皮一〇〇貫目などを産し、民業戸数は農一二、桶具職・水車職各一(郡村誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 