榎原神社(読み)よわらじんじや

日本歴史地名大系 「榎原神社」の解説

榎原神社
よわらじんじや

[現在地名]南郷町榎原甲

榎原川の左岸に位置する。祭神は天照大神・天忍穂耳命・彦火瓊瓊杵命・彦火火出見命・鵜草葺不合命・神日本磐余彦命。旧県社。江戸時代に内田万寿(寿法院)という巫女の託宣によって鵜戸山うどさん大権現(現日南市鵜戸神宮)の分霊を地福じふく寺の北隣に勧請して創建された。古くは榎原大権現と称し、歴代飫肥藩主からも厚く崇敬され、鵜戸山大権現とともに飫肥おびの御両社ともよばれた。

〔草創の経緯と藩主伊東氏の帰依〕

元和六年(一六二〇)西方にしかた(現串間市)に生れた内田万寿は幼い時から信仰に厚かった。寛永一七年(一六四〇)万寿は鵜戸山参詣の帰路に鳥居とりい峠で神憑りとなり、当地に榎原権現を示現する。これを鵜戸山仁王護国寺別当実融(実祐)地福寺住職精能が扇動して信仰を広め、翌一八年には榎原山王の森山伊豆掾が神託によって榎原大権現の神職を兼務することになった。この頃飫肥藩三代藩主伊東祐久の正室(滝川氏)が万寿を深く信仰、明暦二年(一六五六)には祐久・家老伊東勘解由や鵜戸山別当真誉が榎原に参詣するなど(「榎原山縁起」社蔵)、藩主伊東家の崇敬を得るようになった。万治元年(一六五八)四代藩主祐由の代に榎原大権現の社殿が再興されたといい(榎原神社文書)、同三年には祐由が灯籠を寄進している(灯籠碑文)。その後家老矢野儀一によって万寿が妖言や迷信によって庶民を惑わす者として排斥され、一時期信仰熱は下火となった。しかし寛文一〇年(一六七〇)万寿が没し、延宝二年(一六七四)に万寿の霊を祀る桜井さくらい大権現が造営されると再び信者が増え、さらに儀一の子矢野儀朝が失脚したため(日向纂記)、その後は鵜戸山権現再誕の地として多くの参詣者を集めるようになった。歴代飫肥藩主もしばしば参詣や代参している(六鄰荘日誌・山之城家文書)。なお桜井大権現は、江戸時代榎原大権現とともに両権現とよばれ、どちらが主神か区別がつかないほど人々から崇敬を得ていた(「県郷村社以下寺院」県立図書館蔵)

〔神領の寄進と社殿の造営〕

歴代飫肥藩主は当社に対して度々神領を寄進している。天和元年(一六八一)には五石を加増されて神領は地方二八石七斗余となっていた(飫肥藩人給帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の榎原神社の言及

【南郷[町]】より

…また目井津港の北には今は地続きとなった虚空蔵(こくぞう)島の亜熱帯林(天)があり,ビロウやフカノキなど多くの熱帯植物が自生し,アコウの巨木が群生する。南郷川上流には縁結びの神として知られる榎原(よわら)神社があり,1707年(宝永4)建立の本殿を有する。JR日南線と国道220号線が通る。…

※「榎原神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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