横北郷(読み)よこぎたごう

日本歴史地名大系 「横北郷」の解説

横北郷
よこぎたごう

加賀市横北町を中心に、山中やまなか四十九院しじゆうくいん町にかけての動橋いぶりはし川上流の丘陵地一帯に比定される。室町期からみえる郷名で横北庄ともよぶ。泉涌せんにゆう(現京都市東山区)塔頭安楽光あんらくこう院が本所、領家は京都相国しようこく鹿苑ろくおん院の塔頭林光りんこう院。

「蔭涼軒日録」寛正二年(一四六一)九月二六日条に「林光院領加賀国横北郷」とみえ、同書によれば応永二五年(一四一八)頃林光院の創建当初に足利義持が地頭領家職を寄進、年貢銭二〇〇貫文・年貢米三〇〇石のうち一〇〇貫文を本所安楽光院に本役として納めることが義務づけられていた(長享二年七月五日条など)。林光院は小刹ながら富裕な塔頭であったが、文明(一四六九―八七)末年から窮乏して無住持となり鹿苑僧録が兼住していた。経済的には横北郷の年貢銭のみに依存していたが、一向一揆勢力の台頭や安楽光院との相論によって林光院の支配は困難となっていった。代官は足利義持の時代に斎藤御園筑前守が任じられたが二年間年貢を林光院に納めず解任され、後任の国人立町(千秋)伊豆守も文明一二年頃より六年間年貢を押領しつづけた。同一八年一一月三日、横北郷の地下百姓一人が上洛して六年間の「勘定」を済ませることを求めたので、鹿苑院は立町伊豆守のほか波佐谷松岡はさだにしようこう寺蓮綱(蓮如の三男)よね(江沼)郡一揆中・横北郷名主百姓中の四所に符を下し、召喚して各人の意見を聞こうとした(蔭涼軒日録)。このとき京都東福寺巣松そうしよう軒の僧で石川郡大慶だいぎよう(現松任市)住持であった祖舜蔵主が立町氏後任の代官職を望んだ。彼は大慶寺末院安楽院が横北のうちの中院家領内にあるので、立町伊豆守専横の実態を熟知していると主張(同書文明一八年一一月六日条)、各方面に代官職獲得運動を展開し、長享二年(一四八八)より五ヵ年間という条件で、林光院僧の名目的代官のもとに下代官となった(同書長享元年一〇月二〇日条・同一一月一〇日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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