日本歴史地名大系 「橋場町在方分」の解説 橋場町在方分はしばまちざいかたぶん 東京都:荒川区橋場町在方分[現在地名]荒川区南千住(みなみせんじゆ)三―四丁目・同七―八丁目、台東区橋場一―二丁目・日本堤(にほんづつみ)一―二丁目・清川(きよかわ)一―二丁目小塚原(こつかつぱら)町・中村(なかむら)町の東にあり、南は浅草橋場町と今戸(いまど)町(現台東区)、北から東へ荒川(現隅田川)が流れる。西・南に山之宿(やまのしゆく)町・花川戸(はなかわど)町・浅草材木(あさくさざいもく)町・今戸町(現台東区)、小塚原町・中村町・三之輪(みのわ)村の七町村との入会地があった。西方には千住宿につながる幅四間余の道小塚原縄手(日光道中)が走る。中世には石浜(いしはま)庄とよばれたという。田園簿には橋場村とあり、田四九九石余・畑一六八石余、幕府領。天水場と注記される。ほかに総泉(そうせん)寺(現台東区)領二〇石。正徳三年(一七一三)に今戸町に続く三町六反余の地が町奉行支配に組入れられ浅草橋場町が起立(文政町方書上)。それ以外の七三町五反余の村方が橋場町在方分となった(風土記稿)。旧高旧領取調帳には橋場町とあり、高五八一石余、幕府領。ほかに総泉寺領二〇石。化政期の家数五六(風土記稿)。用水は石神井(しやくじい)用水を利用するが、荒川に近い場所では川の水を引いていた(新修荒川区史)。武家屋敷として荒川沿いには播磨姫路藩酒井氏の下屋敷があり(嘉永六年尾張屋版切絵図)、それに隣接して広大な抱屋敷があった。この地は神明社(現石浜神社)の神主鈴木兵部の屋敷地を同藩が取得したものである。文久元年(一八六一)に同屋敷は上地され、銭鋳造所の真先(まさき)銭座となった。 橋場町在方分はしばまちざいかたぶん 東京都:台東区旧浅草区地区橋場町在方分[現在地名]台東区橋場一―二丁目・日本堤(にほんづつみ)一―二丁目・清川(きよかわ)一―二丁目、荒川区南千住(みなみせんじゆ)三―四丁目・同七―八丁目浅草橋場町の西裏およびその北方にあり、大部分は今戸(いまど)町在方分・花川戸(はなかわど)町在方分・山之宿(やまのしゆく)町在方分・材木(ざいもく)町在方分、小塚原(こつかつぱら)町・中村(なかむら)町(現荒川区)などとの入会で散在していた(荒川区の→橋場町在方分)。明治五年(一八七二)寺社地を合併。同年の東京区分町鑑(東京市史稿)などには橋場町百姓地とあり、同一一年北豊島郡に属した際は地方橋場(じかたはしば)村といった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by