橋本 多佳子
ハシモト タカコ
昭和期の俳人
- 生年
- 明治32(1899)年1月15日
- 没年
- 昭和38(1963)年5月29日
- 出生地
- 東京市本郷区龍岡町(現・東京都文京区)
- 本名
- 橋本 多満(ハシモト タマ)
- 旧姓(旧名)
- 山谷
- 学歴〔年〕
- 菊坂女子美術学校中退
- 主な受賞名〔年〕
- 奈良県文化賞〔昭和34年〕
- 経歴
- 大正11年小倉で杉田久女を知り、以後俳句の手ほどきを受け、14年「ホトトギス」に投句する。昭和4年大阪に移り、以後山口誓子に師事し、10年「馬酔木」に参加。16年第一句集「海燕」を刊行。23年誓子主宰の「天狼」が創刊され、同人として参加。25年榎本冬一郎と「七曜」を創刊し、25年から主宰。33年からは読売新聞俳壇選者を務めた。他に「信濃」「紅糸」「海彦」「命終」「橋本多佳子全句集」などの句集がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
橋本多佳子 (はしもとたかこ)
生没年:1899-1963(明治32-昭和38)
俳人。東京都生れ。本名は多満(たま)。1922年に俳句に手を染め,35年から山口誓子に師事した。48年に創刊された俳句同人誌《天狼(てんろう)》で特に活躍,戦後の代表的女流俳人と評価されている。35年以前の習作期に,〈わが行けば露とびかかる葛の花〉(《海燕(うみつばめ)》1941)のような大胆な把握が示されていたが,その大胆さが多佳子の句法として確立するのは,第3句集《紅糸(こうし)》(1951)においてである。〈雄鹿の前吾もあらあらしき息す〉〈蛍籠昏(くら)ければ揺り炎えたゝす〉などにおいて,多佳子の大胆さは,存在そのものを提示して独自であった。その作品は《橋本多佳子全句集》(1973)に集成されている。
執筆者:坪内 稔典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
橋本多佳子
はしもとたかこ
(1899―1963)
俳人。東京生まれ。本名多満(たま)。旧姓山谷。1917年(大正6)橋本豊次郎と結婚、のち小倉(こくら)に住む。22年(大正11)より俳句を志し、杉田久女(ひさじょ)の手ほどきを受ける。『ホトトギス』『馬酔木(あしび)』を経て、山口誓子(せいし)に師事、『天狼(てんろう)』創刊に同人として参加。48年『七曜(しちよう)』を創刊主宰。「男の道を歩く稀(まれ)な女性作家」といわれ、個性的な嘆きや寂寥(せきりょう)感を力強く表現した。句集に『海燕(うみつばめ)』(1941)、『信濃(しなの)』(1947)、『紅絲(こうし)』(1951)などがある。
[鷹羽狩行]
蛍籠(ほたるかご)昏(くら)ければ揺(ゆ)り炎(も)えたたす
『『橋本多佳子全句集』全1巻(1976・立風書房)』▽『『増補現代俳句大系6・8』(1981・角川書店)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
橋本多佳子 はしもと-たかこ
1899-1963 昭和時代の俳人。
明治32年1月15日生まれ。昭和10年から山口誓子(せいし)に師事,23年「天狼(てんろう)」創刊に同人として参加。「七曜」を創刊,主宰した。昭和38年5月29日死去。64歳。東京出身。旧姓は山谷。本名は多満。句集に「海燕(うみつばめ)」「紅糸(こうし)」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
橋本 多佳子 (はしもと たかこ)
生年月日:1899年1月15日
昭和時代の俳人。「七曜」主宰
1963年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の橋本多佳子の言及
【天狼】より
…俳句雑誌。西東三鬼,橋本多佳子らが,[山口誓子]を囲む同人誌として1948年(昭和23)1月に創刊。誓子は創刊号で,〈酷烈なる俳句精神〉〈鬱然たる俳壇的権威〉を実現したいと述べたが,三鬼のニヒリズム,永田耕衣の東洋的無,平畑静塔の俳人格などは,俳句精神の根源を探求した成果であり,昭和20年代の俳壇に活気をもたらした。…
※「橋本多佳子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」