正子内親王(読み)せいしないしんのう

朝日日本歴史人物事典 「正子内親王」の解説

正子内親王

没年:元慶3.3.23(879.4.18)
生年大同4(809)
平安時代前期の淳和天皇皇后嵯峨天皇橘嘉智子の子。「まさこ」とも。天長4(827)年皇后に。恒貞親王を生む。天長8年旱災のとき,囚徒を録して人々の作役を廃するよう天皇に勧めると雨が降ったという。天長10年仁明天皇が即位し,恒貞が立太子。承和7(840)年夫が死亡したため,出家して尼となった。承和の変(842)が起こるや,謀反の中心とみなされ恒貞親王は廃太子正子は摘発者の母嘉智子を怨んだ。貞観2(860)年菩薩戒を受ける。法名は良祚。篤く仏教を信仰し,大覚寺を建立。側に僧尼の病気治療のための済治院を建てた。さらに淳和院を道場とし,尼の居所とした。京中孤児養育にも当たった。

(京楽真帆子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「正子内親王」の解説

正子内親王(1) せいしないしんのう

809-879 平安時代前期,淳和(じゅんな)天皇の皇后。
大同(だいどう)4年生まれ。嵯峨(さが)天皇の皇女。母は橘嘉智子(たちばなの-かちこ)。恒貞(つねさだ)親王らを生む。天長4年皇后,10年皇太后となる。承和(じょうわ)7年出家。深く仏教に帰依(きえ)し,孤児を救済,嵯峨に大覚寺をひらき,僧尼のための済治院をもうけた。元慶(がんぎょう)3年3月23日死去。71歳。法名は良祚。

正子内親王(2) せいしないしんのう

1045-1114 平安時代中期-後期,後朱雀(ごすざく)天皇の第5皇女。
寛徳2年4月20日生まれ。母は藤原延子(えんし)。天喜(てんぎ)6年賀茂(かもの)斎院となる。延久元年病のためしりぞき,のち出家。押小路(おしこうじの)斎院,土御門(つちみかどの)斎院とよばれた。永久2年8月20日死去。70歳。

正子内親王 まさこないしんのう

⇒せいしないしんのう

正子内親王 しょうしないしんのう

⇒せいしないしんのう

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「正子内親王」の解説

正子内親王 (まさこないしんのう)

生年月日:1045年4月20日
平安時代中期;後期の女性。斎院
1114年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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