正応寺跡(読み)しようおうじあと

日本歴史地名大系 「正応寺跡」の解説

正応寺跡
しようおうじあと

[現在地名]都城市安久町 正応寺

都城盆地の南側に連なる鰐塚わにつか山地の標高七〇〇メートル近い通称トンビガ岡直下の山中にあった。西は安久やすひさ川の上流で谷間となっている。真言宗大乗だいじよう(現鹿児島市)末寺で、医王山知足院と号し、本尊は最澄彫刻と伝える薬師如来秘仏は日光・月光両菩薩と十二神将像、山王権現鎮守としていた(庄内地理志)。寺名は聖応寺とも記される。初めは天台宗で、開山は禅慶(「三国名勝図会」では島津庄庄官伴兼高の三男伊賀坊の法号かとしている)という。応保二年(一一六二)から五年の間に島津庄領家藤原師実の子孫三代が相次いで死んだことから、仁安元年(一一六六)近江三井みい寺座主二品親王が禅慶らに命じて最澄手彫の薬師像を当地に持来り、島津庄内に一寺を創建して十二坊をも造り、日吉山王社を鎮守としたと伝える。知足院は藤原忠実の別称である。だがその後三〇〇余年の間に衰えた伽藍は薬師堂と山王を残すのみとなり、永正年間(一五〇四―二一)に真言僧宥喜により再建されたが、のちまた廃絶したという(庄内由緒記)。だが山王社に応永一四年(一四〇七)八月二一日の棟札(庄内地理志)などが伝えられ、また応仁二年(一四六八)二月二九日同社は島津勝久らにより再興された(「都城安久村正応寺棟札」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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