安久村(読み)やすひさむら

日本歴史地名大系 「安久村」の解説

安久村
やすひさむら

[現在地名]都城市安久町

田辺たべ村の西にあり、東部は飫肥藩酒谷さかたに(現日南市)鰐塚わにつか山系ひがし岳の稜線で界し、南東は高鍋藩飛地の大矢取おおやどり(現串間市)、南は大隅国囎唹そお南之郷みなみのごう(現鹿児島県末吉町)。南東に長く延びる村域は山岳部が多く、平地は約一〇分の一で、安久川が中央を北へ貫流し北方の萩原はぎわら川に合流する。都城中心部のもと町から当村に通じる道は正応しようおう寺の参詣道でもあった。村名の安久は地元では「やっさ」とよばれる。

応安八年(一三七五)三月二三日、島津氏久は富山彦五郎義弘からの申出に基づき、旧領である島津庄日向方の「中郷富山・安久名」等の知行安堵を室町幕府に取次いでいる(「島津氏久挙状写」志々目文書)。当地の鬼束家に伝わった応永三二年(一四二五)の中郷西方本田市王丸内検馬上取帳(鬼束文書)には、安久・南安久・安久名・安久河元などにある土地がみえるほか、篠原田三〇には「八木給 安久帳ニ有之」の注記がある。ここから安久には独自の別の年貢の取帳があったことがわかる。なおこの取帳には樺山氏らの土地集積による内容の変更などが記載されており、北郷氏らの関与のもとに作成されたものであったと推定される。また鬼束氏系図(同文書)によれば、鬼束義綱は明応七年(一四九八)一〇月石原門一町三反を宛行われたか安堵されたらしく、その目録は別にあるとみえる。


安久村
やすひさむら

[現在地名]養老町安久

東流する牧田まきだ川の左岸にあり、古くから同川の氾濫旱魃に苦しめられた。対岸南は大塚おおつか村、北東宇田うた村。文明二年(一四七〇)銘の荘福しようふく寺蔵の骨蔵器陰刻銘に「濃州多藝庄安久郷有寺、曰荘福」とみえる。正保郷帳に村名がみえ、大垣藩領、高九四石余のうち田五五石余・畑三九石余。元禄郷帳でも同藩領。文化一三年(一八一六)の垂井宿最寄手明村書上帳(旧井文書)は同宿の助郷村が増助郷を出願した際その対象となる村を指定したものだが、当村は同宿より一里半ほどの地にあり、家数二八ほど・人数一〇七ほどと記される。


安久村
やすひさむら

[現在地名]三島市安久

梅名うめな村の南にあり、大場だいば川が狩野かの川に合流する地点の右岸に位置する。狩野川を挟んで東対岸は田方たがた間宮まみや(現函南町)。中世安久郷の遺称地。天正一八年(一五九〇)一〇月検地があった(「君沢郡安久之郷検地帳」大城家文書)。元禄郷帳によると高七二五石余。江戸時代当初は幕府領。元禄一一年(一六九八)旗本須田新庄・河野・島田・大久保・三宅井出の七家の相給地となる(国立史料館本元禄郷帳など)。天明五年(一七八五)と天保九年(一八三八)相模小田原藩領が加わり、幕末には旗本河野・井出・新庄・三宅・須田の五家と同藩の相給地となった(韮山町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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