日本大百科全書(ニッポニカ) 「武断政治・文治政治」の意味・わかりやすい解説
武断政治・文治政治
ぶだんせいじぶんちせいじ
江戸幕府4代将軍徳川家綱(いえつな)から7代家継(いえつぐ)の時期の幕政の基調を文治政治といい、これに対して初代家康から3代家光(いえみつ)までのそれを武断政治という。文治主義は、武力や厳しい刑罰で被治者を圧伏する武断主義や刑法主義に対して古代中国の儒家が唱えた立場で、君主が国家の制度として礼楽(れいがく)を確立させれば社会に秩序と和がもたらされ自然と人民が帰服するという思想であり、儒教の渡来以来わが国においても国家的支配をいわば粉飾するものとして絶えず標榜(ひょうぼう)されてきた。戦国大名も左文右武、「仁義礼智信」を家法に盛り込み、戦国大名を武力で統一した豊臣(とよとみ)秀吉も関白となって伝統的な礼の体系の頂点にたち、家康も武家諸法度(ぶけしょはっと)や禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)(禁中并公家中諸法度)で礼を強調している。したがって武断政治・文治政治といっても、どちらの要素がより優勢かという問題であり、士農工商全階層を戦争と普請役(ふしんやく)に動員することで体制の構築と維持が図られた秀吉から家光の時期は、大名の大量取潰(とりつぶ)し、人質の徴収など武断主義的要素が基調となった。これに対して、戦争の可能性がまったくなくなった17世紀後半以降は、武断主義は根拠を失い文治主義的傾向が強まり、家綱の期の牢人(ろうにん)取締り緩和、人質の廃止、5代綱吉(つなよし)の学問奨励、儀式の整備などを経て、6代家宣(いえのぶ)・7代家継を補佐した新井白石(あらいはくせき)の正徳(しょうとく)の治において最頂期に達した。8代吉宗(よしむね)は白石の行き過ぎは修正したが、学問・民衆教化の方策は受け継いだ。
[高木昭作]