中国中部、湖北(こほく)省の省都武漢(ぶかん)市の市轄区。同省中東部の長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))南岸に位置する。人口105万6137(2015)。三国時代に孫権(そんけん)が築いた夏口城(かこうじょう)に始まり、晋(しん)の初めに沙羨(さい)県が設けられ、隋(ずい)以降、江夏(こうか)県となった。また隋・唐・宋(そう)代に鄂州(がくしゅう)または江夏郡の治所も置かれたが、元代には武昌路、明(みん)・清(しん)代には武昌府とよばれ、湖広省の省都であった。1949年、市街地は武漢市の一部となったが、農村部は武昌県として残った。武昌県は1995年に区制施行し、江夏区となった。
辛亥(しんがい)革命が始まった地で、現在は青山(せいざん)区の武漢鋼鉄のコンビナートをはじめ多くの工場が建ち並ぶ。武漢大学など高等教育機関も多く、区内の教育研究機関の密集度は北京(ペキン)市海淀(かいてい)区に次ぐ。李白(りはく)の詩に歌われた黄鶴楼(こうかくろう)(1985年再建)や辛亥革命武昌起義記念館などの観光名所がある。なお、三国時代以降清末までの武昌県は、今の鄂州(がくしゅう)市にあたる。
[河野通博・編集部 2017年8月21日]
中国,湖北省東部の都市。漢陽,漢口とともに武漢市を形成し,湖北省の省都である。漢水河口の対岸,長江(揚子江)の東岸に位置する。三国時代に呉の孫権がここに夏口城を築き,のち武昌郡の治所となった。晋が汝南県を置き,南朝宋も汝南県を置いた。隋は江夏県とし,唐では武昌軍節度使の駐地となり,五代,宋には鄂(がく)州,元では武昌路,明・清では武昌府の治所となり,明の湖広省,清の湖北省の省都とされた。この地は長江中流の要衝で,水上交通の一中心でもあったので,古来から南北勢力必争の地となったが,ことに宋末1259年(開慶1),モンゴルのフビライはこの地を包囲し,一挙に宋を滅ぼそうとした鄂州の役は有名である。また近代においては1853年(咸豊3),清軍と太平天国軍との間に激しい攻防戦が展開され,武昌は太平軍に占領された。1911年の辛亥革命はこの地を拠点として開始されたことはあまりにも有名である。その後の革命運動史においてもこの地と関係をもつ事件は多い。現今の市街は清末,張之洞の近代化策により改造されたのが基礎となっており,明初に築かれた城壁も1928年に撤去されて近代都市の形態が整えられた。新中国成立後は武昌,漢陽,漢口は2本の鉄道と3本の道路によって結合され,武昌には省都の政治中枢が集中するだけでなく,武漢鉄鋼コンビナートの所在地として工業の中心ともなっている。また付近には黄鶴楼をはじめ名勝旧跡も多い。
執筆者:谷口 規矩雄
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…人口449万(1994),面積2746km2。長江(揚子江)と漢江の合流点に位置し,武昌,漢陽,漢口の3都市を合併して成った。古くはこの三つを併せて武漢三鎮と称され,交通の要衝でもあったので群雄必争の地となった。…
※「武昌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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