中国、盛唐の詩人。中国最大の詩人の1人。字(あざな)は太白(たいはく)、号は青蓮居士(せいれんこじ)。同じ盛唐の杜甫(とほ)とともに「李杜」と並称される。杜甫の「詩聖」、王維(おうい)の「詩仏」に対して、李白は「詩仙」とよばれる。「謫仙人(たくせんにん)」ともあだ名され、後世では、その官名により李翰林(りかんりん)とよばれる。約1050の詩、60余の文が現存する。
[中島敏夫]
生涯は不明な点が多く、生年をはじめかなりの部分が推測による。家系は隴西郡(ろうせいぐん)成紀県(甘粛(かんしゅく)省秦安県付近)の出。自ら西涼(せいりょう)の武昭王の李暠(りこう)の9世の孫で唐王朝と同宗と称しているが、これは信じがたいとされている。隋(ずい)末に一家が罪によって西域に移ったと思われる。父は西域の豪商だったともいう。生まれたのは西域の砕葉(スイアブ)(現キルギス共和国トクマク付近)、もしくは蜀(しょく)の隆昌(りゅうしょう)県(四川(しせん)省江油県)で、彼の出生前後に家は西域から蜀に帰った。25歳ごろ、蜀を出て長江(ちょうこう/チャンチヤン)〔揚子江(ようすこう)〕を下り、以後生涯を遍歴に送った。
李白は、幼少より詩文に天才ぶりを発揮したが、剣術や任侠(にんきょう)の世界をも彼は好んだ。また若いときから道教に傾倒して仙界へのあこがれをもち、山中で過ごすことも多かった。彼の詩の幻想性は多くその道教的発想に支えられており、また山中は彼の詩的世界の重要な舞台の一つとなった。出蜀後、洞庭湖あたりから、呉(ご)・越(えつ)(南京(ナンキン)・杭州(こうしゅう)一帯)などに遊び、安陸(湖北省)で元の宰相、許圉師(ぎょし)の孫娘をめとり居を構え、約10年間を送った。その間も、家庭に落ち着くことは少なく、孟浩然(もうこうねん)・元丹丘ら多くの詩人・道士と交わって全国を旅し、足跡はあまねく中国各地に及んだ。その後、任城(山東省)や南陵(安徽(あんき)省)に家を置いた。孔巣父(こうそうほ)らと徂徠(そらい)山に隠棲(いんせい)して「竹渓の六逸」と称されたのは、この任城にいたころのことと思われる。妻の許氏の没後、劉(りゅう)氏、さらに宋(そう)氏をめとり、子供に娘の平陽と息子の伯禽(はくきん)がいた。李白には妻・子供への愛情を吐露する優れた詩があるが、偉大なる詩人かならずしもよき夫・父とはいえなかったようである。
李白は、唐代詩人中では珍しく科挙の試験を受けていない。彼は自らの才を自負し、自分はかならず重用されて政治的手腕を発揮しうるものと信じていたが、彼の期待に反してその機会は長く訪れなかった。焦慮と絶望のなかにあったとき、その時が訪れた。43歳の李白は都長安に上り、玄宗に召されて歓待を受け、天子側近の翰林供奉(ぐぶ)となった。この1、2年の間が、彼の不遇な生涯における栄光の時期であった。杜甫の「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来れども船に上らず、自ら称す 臣は是(こ)れ酒中の仙と」(飲中八仙歌)はそのころの李白の姿を伝えている。しかし、李白の不羈(ふき)の性格は天子側近の人々の讒言(ざんげん)を招き、ついに宮中に身を置くことができなくなり、都を退いた。都を退いた李白は、洛陽(らくよう)で11歳年下の杜甫と出会い、親交を結んだ。2人のつきあいは短かったが、別れたあとも互いの友情は生涯にわたって続いた。
755年、安禄山(あんろくざん)の乱が起こり、賊軍が長安に侵入したため、玄宗は四川に逃れ、粛宗が即位した。55歳の李白はこのとき廬山(ろざん)(江西省)にいたが、粛宗の弟の永王に招かれて、その軍に加わった。しかし永王は粛宗との反目から反乱軍とされて、討伐を受けた。李白も捕まり一時死罪と決まったが、のち減刑せられて夜郎(貴州省)へ流刑となり、揚子江をさかのぼって三峡まできたとき、さらに赦免にあった。その後、晩年を江南の地に送り、62歳、当塗県(安徽省)県令の李陽冰(りようひょう)のもとで病没した。
[中島敏夫]
李白の詩は、杜甫の詩が彫琢(ちょうたく)を窮めるのに対し、流れ出ることばがそのまま詩となるといった詩風をもつ。杜甫の五言律詩に対し、楽府(がふ)・七言絶句を得意とする。たとえば「両人対酌して山花開く、一杯一杯又(ま)た一杯」の句などは、規範にとらわれず自由な発想とリズムを駆使したその好例である。また盛唐を代表する詩人としての李白は、人間・時代・自己に対する大いなる気概・自負に燃えてそれらを詩中に詠みこんでいった。たとえば『古風』其(その)一の「大雅久しく作(おこ)らず、我衰えなば竟(つい)に誰(たれ)か陳(の)べん」、『将進酒』の「天の我が材を生ずるは必ず用有らん」などである。だが、その気概・自負は時代が開元(713~741)から天宝(742~755)に移るにつれて、専制独裁のもとで深まる腐敗汚濁の現実に破れていった。「人生 意を得んには 須(す)べからく歓を尽くすべし」(将進酒)と生きる歓(よろこ)びに正面から立ち向かう詩人は、同時に、彼のいう「万古の愁」――生きるがゆえの愁いをつねに心に抱かざるをえなかった。彼は好んで酒・月・山を詠じ、旅情・別離・閨情(けいじょう)を詠むが、彼はそこにその愁いを、ときに格調高く高らかに、ときに心静かにやさしく繰り広げてみせる。李白の詩で人口に膾炙(かいしゃ)したものは多い。「白髪三千丈、愁に縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」(秋浦歌)、「長安一片の月、万戸 衣を擣(う)つの声」(子夜呉歌)、「故人西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月 揚州に下る」〔黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之(ゆ)くを送る〕、「蜀道の難(かた)きは青天に上るよりも難し」(蜀道難)、「余に問う何んの意有りてか碧山(へきざん)に住むと。笑って答えず心自(おのづか)ら閑なり」(山中問答)、「刀を抽(ぬ)いて水を断てば水更に流れ、杯を挙げて愁いを消せば愁い更に愁う」(宣州謝朓楼(しゃちょうろう)に校書叔雲に餞別(せんべつ)す)など、よく知られる名句である。そのほか『月下独酌』『独坐(どくざ)敬亭山』『早発白帝城』『贈汪倫(おうりん)』『㶚陵(はりょう)行』『清平調詞』など、傑作は多い。
李白についての伝説・挿話は他に類のないほど多く、母が身ごもったとき太白星(金星)が懐(ふところ)に入る夢をみたのでその字がつけられたという出生から、流れに映る月影をすくおうとして水に落ちて死んだという伝説のある死に至るまで、彼の数奇にして天才的な生涯を彩っている。彼が長安滞在中、玄宗に召されたとき、泥酔していて、宦官(かんがん)の高力士に靴を履かさせ、たちどころに詩をつくったという話は、なかでも有名である。
李白の詩に対する評価は、彼の生存中、彼が受けた処遇同様、かならずしも正当な高いものではなかった。中唐の韓愈(かんゆ)が「李杜文章在り、光燄(こうえん)万丈長し」とたたえたのち、さらに宋の欧陽修・蘇軾(そしょく)に至って、詩の最高峰とする見方が定まっていった。
[中島敏夫]
李白の詩文のテキストとしては、唐代に魏顥(ぎこう)の編んだ『李翰林集』および李陽冰の『草堂集』などがあったが、いまは伝わらない。現存する古いものは、宋人の重輯(じゅうしゅう)したもので、北宋の楽史(がくし)の編纂(へんさん)したテキストの系統を引く『李翰林集』30巻、および北宋の宋敏求の編纂した『李太白集』30巻がある。東京の静嘉堂(せいかどう)文庫には後者の系統の北宋本がある。注釈本としては、南宋の楊斉賢注、元の蕭士贇(しょうしいん)補注の『分類補注李太白集』と、清(しん)の王琦(おうき)注の『李太白文集』が広く世に行われている。日本においては、寛平(かんぴょう)年間(889~898)の藤原佐世撰(すけよせん)『日本国見在書(げんざいしょ)目録』に「李白詩歌行三巻」が載せられており、また和刻本としては、宋の楊斉賢注、元の蕭士贇補註の『分類補註李太白詩』25巻が1679年(延宝7)に刊行されており、杜甫の詩についで読まれてきた。
[中島敏夫]
『武部利男注『新修中国詩人選集2 李白』(1983・岩波書店)』▽『青木正児著『漢詩大系8 李白』(1965・集英社)』▽『小尾郊一著『中国の詩人6 李白』(1982・集英社)』
中国,唐の詩人。杜甫とあわせて〈李杜〉と並称される。異民族の居住地西域から四川に移住した父が富裕な商人であったらしい。誕生のとき,母がふところに太白星(宵の明星)の入った夢を見たところから,字を太白とつけたという。少年のころから奇書に通じ,成長すると岷山(みんざん)(四川省)にこもって暮らした。また任俠無頼の生活を好み,俠客とも交わった。25歳のころから各地を遍歴して歩き,一時山東省の任城にとどまり,5人の道士と徂徠山(そらいざん)に住んで〈竹渓の六逸〉といわれた。その後,江南に遊んで道士呉筠(ごいん)と知り合い,呉筠が朝廷に召し出されたのに従って初めて長安にのぼった。長安では賀知章(659-744)の知遇を得たが,彼は李白の詩に驚嘆して〈謫仙(たくせん)〉(天上から流刑された仙人)だと言った。賀知章の推挙で玄宗に召し出され,翰林供奉(かんりんぐぶ)を授けられたのは42歳のときであった。文名は日増しに高まったが,酒を好み気ままにふるまったために玄宗の側近にきらわれ,3年で長安を去り,再び各地を放浪し,その間に杜甫や高適(こうせき)などの詩人と知り合った。安禄山の乱が起こると,玄宗の皇子永王璘(えいおうりん)の軍の参謀となり,政治的野心をみたそうとしたが,璘が逆賊として処刑されるとともに捕らえられて夜郎(やろう)(貴州省)へ流された。しかし途中恩赦にあって尋陽(江西省)にかえり,その後は当塗(とうと)(安徽省)の知事であった親族の李陽冰のもとに身を寄せ,波瀾にみちた生涯を終えた。代宗が即位して左拾遺として召し出そうとしたが,すでに世を去った後であった。
李白は生来放逸を愛して束縛を嫌った快楽主義者であり,儒家の思想よりも老荘に親しんで多くの道士を友とした。その詩も形式のよりゆるやかな〈古詩〉を得意とし,自由奔放で幻想にみち,大らかな風格をもつ。いわゆる〈盛唐の気象〉を最もよく体現した詩人であり,この点は並称される杜甫のもつ沈鬱な内向性と対照的である。六朝の詩風,ことに斉梁の技巧的で繊細優美な詩風を嫌い,《詩経》の精神を受け継ぎながら,漢・魏の剛健で風骨のある詩風を復活させることを目ざしたが,その主張を高らかに宣言したのが〈古風〉59首の連作である。しかし反面では六朝の詩人たち,なかでも謝朓(しやちよう)から深く学んでいることも事実である。〈楽府(がふ)〉の形式に本領を発揮し,傑作の数々を残しているが,それは漢以来の〈楽府〉や六朝の民謡を継ぎながら,表現や内容をさらに発展させたもので,〈蜀道難〉〈将進酒〉〈子夜呉歌〉などの作品がある。既成の諸作をふまえるばかりでなく,たとえば〈清平調詞〉〈静夜思〉など純然たる創意に出る作もむろん数多くのこしている。さらに絶句においても多数の名作をものしているが,特に七言絶句,雄大で躍動的な叙景で知られる〈早発白帝城〉〈望天門山〉などは代表作である。《李太白文集》30巻が伝わる。なお唐代には少なくとも2種の作品集があったが散逸し,現存最古のテキストは宋代の刊行である。なお李白の作品は江戸時代までは比較的少数の専門家に親しまれただけであるが,近代以後は杜甫とならんで訳注や研究書が数多く著されている。
→唐詩
執筆者:荒井 健
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701~762
唐中期の詩人。生地不詳。字は太白。大志を抱きながら奔放な性格のため,一生を放浪に過ごして,天才的な詩をつくった。晩年は永王璘(えいおうりん)の反軍に参加し流刑にされたりした。杜甫(とほ)と並び中国詩の最高峰とされる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…五言詩の連作〈詠懐〉82首は,屈折した哲学的思弁をまじえつつ,折々の胸中の思いを吐露した作品で,詩型としてなお歴史の浅い五言詩に深い思想性をもたらした功績は大きい。のちの陶潜(淵明)や李白らの文学にも影響を及ぼしている。その難解さは古来定評がある。…
…謝霊運を〈大謝〉と称するのに対して,〈小謝〉と呼ばれる。その詩は唐詩の抒情の先駆けとなり,ことに李白の詩に及ぼした影響は大きい。永明文学【興膳 宏】。…
…大詩人が群をなして出現するのは8世紀(盛唐)であった。この時期の三大詩人の出身をみると,王維と杜甫は下級貴族だが,李白の父は商人であったらしい。この3人がそれぞれ異なる宗教の信徒であることは注意すべきで,王維は仏教,李白は道教の信仰をもっていた。…
…李嶠(りきよう)(644‐713)の《雑詠》のごとき〈詠物〉の律詩の集が熟読されたことも,初唐の詩の影響の大きさを示すものであり,《凌雲集》以下の諸詩集に見える古体詩が盛唐以後の古体詩とスタイルを異にするのは,やはり初唐詩家の作を学んだものと思われる。 盛唐(710ころ‐765)の詩の名家は多いが,王維,李白,杜甫を例としよう。3人はそれぞれ異なった思想の持主で,王は仏教,李は道教の信徒であり,儒学の信念を守ったのは杜甫だけであった。…
…時代の実相を余すところなく歌った数々の作品が,詩による歴史〈詩史〉と称され,彼自身もまた人類最高の詩人〈詩聖〉と敬われたゆえんである。 青年時代各地を漫遊し,744年(天宝3)洛陽ですでに名だたる詩人であった李白と出会い,権威に媚びないその自由な精神に強くひきつけられた。奔放と謹厳という好対照の性格をもつ2人の友情はこれ以後生涯変わらず,さらにこの時期に出会った高適(こうせき)を加えて,3人で過ごした日々は杜甫にとって生涯にわたる貴重な思い出となった。…
…かつて金牛が渚岸より出現したため牛渚磯,また五彩の石を産するところから采石磯と呼ばれ,南京の燕子磯,湖南岳陽の城陵磯と並んで長江三磯と称される名勝である。唐の李白は晩年ここに暮らし,船中で水に映る月をとらえようとして溺死したと伝えられ,それを記念した太白楼,捉月台などがある。【秋山 元秀】。…
…臨海王劉子頊(りゆうしぎよう)の前軍参軍となったので,鮑参軍とも呼ばれる。華麗な文才はことに一連の楽府(がふ)(歌謡調の詩)にすぐれた成果を示し,唐の李白の詩に大きな影響を与えた。宋の詩人として,謝霊運と並び称される。…
※「李白」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
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