中国,清末の大官僚。字は考達,諡(おくりな)は文襄。直隷(河北)省南皮の人。名家に生まれ,15歳で郷試に首席合格,26歳のとき3番の成績で進士に及第。以後,官界のエリート・コースを歩んだ。1880年(光緒6),ロシアとの屈辱的条約に反対して強硬な外交路線を主張,84年,清仏戦争に備えるため広東・広西を治める両広総督に任命されて以来前後18年間,湖広(湖北・湖南),両江(江蘇・安徽・江西)などの総督をつとめた。その間,西洋の科学技術の優位をみとめて軍需,紡績工場を設け,ドイツ式の新式軍隊をつくるなど殖産興業,富国強兵に尽力した。そうした開明的官僚ではあったが,西洋文明の基盤となっている民主思想や議会制度に対しては拒否反応を示し,中国の伝統を重んじる〈中国を体とし西洋を用とする〉という,中体西用論をのりこえることができなかった。だが彼が海外に送った留学生のなかから,清朝打倒を主張する革命家が輩出,その死の2年後,共和制の中華民国が誕生した。主著《勧学篇》(1898)は《張文襄公全集》に収録。
執筆者:河田 悌一
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中国、清(しん)末の大官僚で、洋務運動推進者の1人。字(あざな)は孝達。号は無競居士、壺公抱冰(ここうほうひょう)。直隷(ちょくれい)(河北)省南皮出身。幼少時から勉強熱心で、秀才の誉れが高く、出世も早かった。翰林院(かんりんいん)侍読学士、内閣学士から山西巡撫(じゅんぶ)、両広総督、湖広総督、両江総督などを歴任、その間、李鴻章(りこうしょう)、左宗棠(さそうとう)などと並んで、洋務運動を積極的に推進し、軍備強化と官営工場の設立、教育改革、留学生派遣による人材育成、実学振興に努め、洋務運動の後期の代表者の1人となった。彼は1898年に『勧学篇(へん)』を書いて「中体西用」論を主張し、既存の王朝体制を前提として、その下で可能な限り「富国強兵」を行い、清朝の起死回生を図った。これは洋務運動を代表する理論とみなされているが、この著作の書かれた時期をみてもわかるように、変法運動の興隆に対して、洋務運動を擁護しようとする意図をも含んでいた。
[伊東昭雄]
『西順蔵編『原典中国近代思想史2』(1977・岩波書店)』
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1837~1909
清末の政治家。直隷省南皮県(河北省交河県)の人。1863年進士に合格。フランスのベトナム侵略に対して強硬政策を主張して有名になり,両広総督に6年間,湖広総督に18年間在任し,積極的な殖産興業政策を奨め,政界に重きをなした。
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…清代にはさらに発展をとげ,長江中流の重要都市となったが,1858年(咸豊8),天津条約により開港してからは上海につぐ第二の貿易港となり,茶,綿,麻などが輸出された。さらに湖広総督張之洞が工業都市化に努力したので近代都市としての発展はめざましく,民国以後は夏口県に昇格し,ついで特別市となった。開港にともない帝国主義列強の租界がつくられ,租界をめぐる紛争も多かったが,解放後は武漢鉄鋼コンビナートの一郭として重要性はさらに大きくなっている。…
…湖北省の漢陽鉄廠,大冶(だいや)鉄山,江西省の萍郷(ひようきよう)炭鉱の3事業を統合するもの。1890年湖広総督張之洞は京漢鉄道への鋼材供給などの目的で,漢陽鉄廠を官営企業として発足させた。ついで,鉄鉱石,燃料・コークス炭の供給のため大冶鉄山(1896),萍郷炭鉱(1899)が開発された。…
…西南地区のみならず,西部高原を通して,チベット地方までその後背地とし,交易を行った。陸路は発達していなかったため,経済発展にともない張之洞などが成都~重慶~漢口を結ぶ川漢鉄道,重慶~広東~欽州を結ぶ欽渝鉄道などを計画したが,これらはいずれも達成されなかった。この間,四川各地で,生糸,皮革,塩,砂糖をはじめ,蜀錦,白蠟や五倍子などの特産やアヘンなどの生産が高まっている。…
…しかし,欧米列強の相次ぐ侵略と中国の敗北,ことに日清戦争の敗北によって,西学の内容を,より拡大して政治制度をも含めようとする鄭観応らの思想が現れ,やがて,根本である〈中学〉そのもの,すなわち伝統的政治制度を改革しようとする変法論が台頭し,康有為らによる明確な君主立憲制の要求となる。張之洞の《勧学篇》(1898)にみえる〈旧学を体とし,新学を用とする〉の主張は,当時の急進的な思想傾向に歯止めをかけようとするものだったが,時勢はすでに中体西用論の段階を超えていた。しかし,その後,中体西用論的発想はまったく消えたのではなく,1935年の陶希聖ら10教授による〈中国本位文化建設宣言〉,70年代から今日にいたる〈四つの現代化〉論も,その根底に中体西用論がひそんでいると考えられる。…
…すなわち上海で販売する場合には無税,内地へ移出する場合には正税(5%)のみを納めればよいという特権が与えられた。94年(光緒20)には盛宣懐が上海華盛機器紡織総廠,張之洞が湖北紡紗局をそれぞれ設立し,紡績部門への拡大が試みられた。交通,運輸に関しては,1873年に輪船招商局が作られ,沿海,内河で英米の汽船会社との対抗が企図された。…
※「張之洞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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