張之洞(読み)チョウシドウ(英語表記)Zhāng Zhī dòng

デジタル大辞泉 「張之洞」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐しどう〔チヤウ‐〕【張之洞】

[1837~1909]中国、末の政治家。南皮(河北省)の人。あざなは孝達。湖広総督軍機大臣などを歴任。軍備の近代化京漢けいかん鉄道の敷設など、洋務運動を推進した。著「勧学篇」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「張之洞」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐しどうチャウ‥【張之洞】

  1. 中国、清末の政治家、学者。字(あざな)は孝達。両広総督、湖広総督を歴任、地方に絶大な勢力を持ち、のち、中央政府で活躍。排外思想の持ち主で対露問題、日本の台湾・琉球統治などに強硬な態度をとったが、一方、開明的でもあり、富国強兵に力をつくした。(一八三七‐一九〇九

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「張之洞」の意味・わかりやすい解説

張之洞 (ちょうしどう)
Zhāng Zhī dòng
生没年:1837-1909

中国,清末の大官僚。字は考達,諡(おくりな)は文襄。直隷(河北)省南皮の人。名家に生まれ,15歳で郷試に首席合格,26歳のとき3番の成績で進士に及第。以後,官界のエリート・コースを歩んだ。1880年(光緒6),ロシアとの屈辱的条約に反対して強硬な外交路線を主張,84年,清仏戦争に備えるため広東・広西を治める両広総督に任命されて以来前後18年間,湖広(湖北・湖南),両江(江蘇・安徽・江西)などの総督をつとめた。その間,西洋の科学技術の優位をみとめて軍需,紡績工場を設け,ドイツ式の新式軍隊をつくるなど殖産興業,富国強兵に尽力した。そうした開明的官僚ではあったが,西洋文明の基盤となっている民主思想や議会制度に対しては拒否反応を示し,中国の伝統を重んじる〈中国を体とし西洋を用とする〉という,中体西用論をのりこえることができなかった。だが彼が海外に送った留学生のなかから,清朝打倒を主張する革命家が輩出,その死の2年後,共和制の中華民国が誕生した。主著《勧学篇》(1898)は《張文襄公全集》に収録。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「張之洞」の意味・わかりやすい解説

張之洞
ちょうしどう
(1837―1909)

中国、清(しん)末の大官僚で、洋務運動推進者の1人。字(あざな)は孝達。号は無競居士、壺公抱冰(ここうほうひょう)。直隷(ちょくれい)(河北)省南皮出身。幼少時から勉強熱心で、秀才誉れが高く、出世も早かった。翰林院(かんりんいん)侍読学士、内閣学士から山西巡撫(じゅんぶ)、両広総督、湖広総督、両江総督などを歴任、その間、李鴻章(りこうしょう)、左宗棠(さそうとう)などと並んで、洋務運動を積極的に推進し、軍備強化と官営工場の設立、教育改革、留学生派遣による人材育成、実学振興に努め、洋務運動の後期の代表者の1人となった。彼は1898年に『勧学篇(へん)』を書いて「中体西用」論を主張し、既存の王朝体制を前提として、その下で可能な限り「富国強兵」を行い、清朝の起死回生を図った。これは洋務運動を代表する理論とみなされているが、この著作の書かれた時期をみてもわかるように、変法運動の興隆に対して、洋務運動を擁護しようとする意図をも含んでいた。

[伊東昭雄]

『西順蔵編『原典中国近代思想史2』(1977・岩波書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「張之洞」の意味・わかりやすい解説

張之洞【ちょうしどう】

中国,清末光緒時代の官僚。直隷省の人。1863年の進士。初め対外強硬論者。イリ問題(イリ条約),清仏戦争に強硬策を主張して有名となる。湖広総督在任中は富強開発に功をあげた。清朝体制の擁護者であった。著書《勧学篇》など多数。
→関連項目黒旗軍大冶鄭孝胥黎元洪

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張之洞」の意味・わかりやすい解説

張之洞
ちょうしどう
Zhang Zhi-dong; Chang Chih-tung

[生]道光17(1837).9.2.
[没]宣統1(1909).10.4.
中国,清末の政治家。直隷 (河北省) 南皮の人。号は香濤。同治2 (1863) 年の進士。対外強硬論を主張する「清流党」の一員と目されていたが,光緒7 (81) 年山西巡撫に抜擢され,次いで両広総督 (84~89) ,湖広総督 (89~1907) を歴任。任地の武漢で兵器,製鉄 (漢陽) ,紡績,製糸などの官営工場を創設,ドイツ式陸軍を編成するなど洋務運動 (→洋務派 ) を推進。また義和団事変後,李鴻章とともに清朝の重臣となり,同 33年には大学士として中央政府に入った。戊戌の変法当時には『勧学編』を著わして,徹底的な改革には反対した。また彼の鉄道建設策も,中国民族資本を無視する外国借款導入を推進するものであった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「張之洞」の解説

張之洞(ちょうしどう)
Zhang Zhidong

1837~1909

清末の政治家。直隷省南皮県(河北省交河県)の人。1863年進士に合格。フランスのベトナム侵略に対して強硬政策を主張して有名になり,両広総督に6年間,湖広総督に18年間在任し,積極的な殖産興業政策を奨め,政界に重きをなした。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「張之洞」の解説

張 之洞
ちょうしどう

1837〜1909
清末期の政治家
河北の人。両広総督・湖広総督など地方大官を歴任。宋学にもとづく民族主義者で,対外強硬論を主唱する反面,京漢鉄道・漢陽製鉄厰・大冶鉄山や兵器厰・紡績工場などの官営近代工業をおこした。洋務から変法への発展を提唱し,清朝の最後の補佐役をつとめた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の張之洞の言及

【漢口】より

…清代にはさらに発展をとげ,長江中流の重要都市となったが,1858年(咸豊8),天津条約により開港してからは上海につぐ第二の貿易港となり,茶,綿,麻などが輸出された。さらに湖広総督張之洞が工業都市化に努力したので近代都市としての発展はめざましく,民国以後は夏口県に昇格し,ついで特別市となった。開港にともない帝国主義列強の租界がつくられ,租界をめぐる紛争も多かったが,解放後は武漢鉄鋼コンビナートの一郭として重要性はさらに大きくなっている。…

【漢冶萍煤鉄公司】より

…湖北省の漢陽鉄廠,大冶(だいや)鉄山,江西省の萍郷(ひようきよう)炭鉱の3事業を統合するもの。1890年湖広総督張之洞は京漢鉄道への鋼材供給などの目的で,漢陽鉄廠を官営企業として発足させた。ついで,鉄鉱石,燃料・コークス炭の供給のため大冶鉄山(1896),萍郷炭鉱(1899)が開発された。…

【四川[省]】より

…西南地区のみならず,西部高原を通して,チベット地方までその後背地とし,交易を行った。陸路は発達していなかったため,経済発展にともない張之洞などが成都~重慶~漢口を結ぶ川漢鉄道,重慶~広東~欽州を結ぶ欽渝鉄道などを計画したが,これらはいずれも達成されなかった。この間,四川各地で,生糸,皮革,塩,砂糖をはじめ,蜀錦,白蠟や五倍子などの特産やアヘンなどの生産が高まっている。…

【中体西用論】より

…しかし,欧米列強の相次ぐ侵略と中国の敗北,ことに日清戦争の敗北によって,西学の内容を,より拡大して政治制度をも含めようとする鄭観応らの思想が現れ,やがて,根本である〈中学〉そのもの,すなわち伝統的政治制度を改革しようとする変法論が台頭し,康有為らによる明確な君主立憲制の要求となる。張之洞の《勧学篇》(1898)にみえる〈旧学を体とし,新学を用とする〉の主張は,当時の急進的な思想傾向に歯止めをかけようとするものだったが,時勢はすでに中体西用論の段階を超えていた。しかし,その後,中体西用論的発想はまったく消えたのではなく,1935年の陶希聖ら10教授による〈中国本位文化建設宣言〉,70年代から今日にいたる〈四つの現代化〉論も,その根底に中体西用論がひそんでいると考えられる。…

【洋務運動】より

…すなわち上海で販売する場合には無税,内地へ移出する場合には正税(5%)のみを納めればよいという特権が与えられた。94年(光緒20)には盛宣懐が上海華盛機器紡織総廠,張之洞が湖北紡紗局をそれぞれ設立し,紡績部門への拡大が試みられた。交通,運輸に関しては,1873年に輪船招商局が作られ,沿海,内河で英米の汽船会社との対抗が企図された。…

※「張之洞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

大臣政務官

各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...

大臣政務官の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android