武田五一(読み)タケダ ゴイチ

20世紀日本人名事典 「武田五一」の解説

武田 五一
タケダ ゴイチ

大正・昭和期の建築家 京都帝国大学教授



生年
明治5年11月5日(1872年)

没年
昭和13(1938)年2月5日

出生地
広島県福山

学歴〔年〕
東京帝大工科大学造家学科〔明治30年〕卒

学位〔年〕
工学博士

経歴
明治32年東京帝大工科大学助教授となり、34年ヨーロッパ留学。36年京都高等工芸学校図案科教授に就任。大正8年京大建築学科創設委員となり、9年学科開設と共に教授、昭和7年退官。名古屋高等工業校長もつとめた。また、9年法隆寺国宝建築修理開始とともにその事務所長となった。教育の傍ら、旺盛な設計活動を行い、関西の建築界で重きをなす。オフィスビルから社寺建築まで約150件もの作品を残したほか橋梁、街路施設、工芸デザインの分野でも活躍。主な建築物に福島行信邸(明治40年)、京都帝大本館(大正13年)、東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)(昭和5年)、藤山雷太邸(7年)、京都日赤病院(9年)など。国会議事堂の設計にも関与した。「竹田博士作品集」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「武田五一」の意味・わかりやすい解説

武田五一【たけだごいち】

建築家。広島県生れ。東大造家学科卒。1901年―1903年ヨーロッパに留学し,アール・ヌーボーゼツェッシオンなどの世紀末建築を体験。帰国後,京都高等工芸学校図案科教授。日本初のゼツェッシオン建築とされる〈福島邸〉(東京,1905年)などの実作によってヨーロッパの新思潮を紹介。1920年京大建築学科を創設し1930年まで教授を務めたほか,奈良・京都の古社寺の保存修復に携わるなど関西建築界の中心として活躍した。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武田五一」の意味・わかりやすい解説

武田五一
たけだごいち

[生]明治5(1872).12.15. 広島
[没]1938.2.5. 京都
建築家。 1897年東京大学造家学科卒業。東京大学,京都高等工芸学校などにつとめたのち,1920年京都大学建築学科創立とともに同大教授。教育と設計の両面で関西建築界を育てた。 1907年の福島行信邸 (東京) で日本最初のウィーン・ゼツェッシオン様式を試み,アール・ヌーボーの造形を紹介,さらには中国風,和風の様式もこなした。建築以外に橋梁,記念碑,街路施設,家具,染色などのデザインも行い,大正期の最も多彩な作家の一人。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武田五一」の解説

武田五一 たけだ-ごいち

1872-1938 明治-昭和時代前期の建築家。
明治5年11月15日生まれ。東京帝大助教授,京都高等工芸教授,名古屋高工校長を歴任,大正9年京都帝大建築学科設立とともに教授となる。昭和9年に開始された法隆寺大修理の事務所長をつとめた。昭和13年2月5日死去。67歳。広島県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「武田五一」の解説

武田 五一 (たけだ ごいち)

生年月日:1872年11月15日
大正時代;昭和時代の建築家。京都帝国大学教授
1938年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android