母船,すなわち洋上で陸上基地の代りをする船と,作業船(漁船)および運搬船(仲積船)で船団を構成して行う漁業。作業船は母船に搭載している場合と独航する場合とがある。母船は加工工場となるのが普通で(ときには,そうでないものもあるが),工船漁業とも呼ばれる。母船は漁獲物の加工,漁船に対する物資の補給のほか,医療,レクリエーションなどの基地ともなる。なお,みずからも操業する型の母船もある。このように洋上ですべてをまかなえるので,長期間洋上に滞在して操業を続けることが可能で,遠洋漁業国に発達している型の漁業である。なかでも日本は各種の母船式漁業を行い,世界で最も母船式漁業が発達していた。日本が行っていた母船式漁業は,母船式底引網等漁業,母船式サケ・マス漁業,母船式カニ漁業,母船式マグロはえなわ漁業(漁船搭載型と独航船付属型とがある),母船式捕鯨漁業で,いずれも指定漁業であったが,1989年に母船式サケ・マス漁業が終わったのを最後に母船式漁業はなくなった。
歴史的にみれば,漁業は沿岸に起こり,漸次,沖合から遠洋へと拡大したわけだが,これは,一方では沿岸資源の枯渇,他方では遠洋への進出を可能にする工業的基盤の進展によるものである。この発展の中で母船式漁業も生まれた。初期の母船式漁業としては,18世紀に始まったアメリカ式捕鯨がある。捕鯨ボートと採油設備を積んだ大型帆船でマッコウクジラを追う漁業で,北アメリカ東岸に始まり,イギリスをはじめ他の国の漁業者も参加したが,アメリカ船が最も多かったのでこの名で呼ばれる。19世紀には最盛期に達し,1842年には882隻という出漁船数を数えた。しかし,近代的な母船式漁業は1920年代に始まる。日本の工船カニ漁業(1921)と外国ではノルウェーの捕鯨母船ランシング号の南氷洋出漁(1925)が最初である。母船式捕鯨については〈捕鯨〉の項に譲り,ここでは工船カニ漁業の盛衰をみてみたい。
タラバガニ漁業は北海道沿岸で古くから行われていたが,缶詰製造が始まってさらに発展した。千島からカムチャツカへと漁場が拡大するにつれ,北千島にも缶詰工場が次々と建設された。しかし漁場が遠くなり,漁獲から加工まで時間がかかりすぎ,品質が低下するようになる。これを防止するため,漁獲したものを船上で煮熟してから,工場へ運搬する方式も試みられたが成功しなかった。1914年,農林省水産講習所の実習船雲鷹丸は,西カムチャツカ沖でタラバガニの漁獲と缶詰製造の実習を行った。これが工船カニ漁業の試みの最初である。雲鷹丸は18年まで試験をつづけ,成功には至らなかったが,有望性が認められた。そこで19年本格的な製造試験を行い,沿海州沖でカニ缶詰20函(1函1/2ポンド缶8ダース入り)を製造した。これが洋上カニ缶詰製造の最初である。これにつづいて富山県水産講習所の練習船呉羽丸が20年西カムチャツカ沿岸に出漁し287函,翌21年には1261函のカニ缶詰の製造に成功した。それまで,カニ缶詰製造にあたって,真水での洗浄が必要と思われていたが,海水による洗浄で十分であることを証明したのである。民間漁業者による工船カニ漁業も同じ21年,2隻の帆船による2759函の製造が最初であった。大正末期に急速な発展をとげた母船式カニ漁業は,昭和に入って全盛期を迎え,30年には40万函を上回る史上最高の生産を達成する。しかし,それ以前にすでに兆しのみえていた過剰生産,資源問題は徐々に顕在化し,経営困難も生じ,企業の合併がつづいた。出漁隻数もだんだん減ったが,第2次大戦で戦前の歴史は終止符が打たれる。戦後は53年にアラスカのブリストル湾への1船団の出漁で再開され,その後オホーツク海へも出漁し,船団数も増加した。しかし,1945年のトルーマン・アメリカ大統領の,大陸棚資源は沿岸国の権利下にあるという宣言から発展した大陸棚条約が,国連海洋法会議で成立し,64年に発効したこともあり,母船式カニ漁業の外的制約は戦前より厳しいものとなった。日本はこの条約には加入しなかったが,現実には日米・日ソカニ漁業協定により厳しい規制を受けた。さらにカニ資源の減少も目だち,74年限りで西カムチャツカ沖のタラバガニは禁漁となった。伝統的なカニ工船は消えたのである。77年からは米ソ両国の200カイリ漁業水域設定により,さらに規制が強まり,東部ベーリング海のタラバガニも対日割当てがなくなり,行政上の母船式カニ漁業が消滅した。
ここに例としてあげたカニ漁業は母船式漁業の勃興,発展,衰退をよく表している。漁場の拡大,洋上操業期間の延長の中での品質の保持,効率的な生産は母船式漁業で達成されたが,遠洋漁業がもつ国際的な制約は年とともに強まっている。
また,母船式ではない北方トロールにしても,すり身,冷凍品などの製造能力を十分備えた工船トロールであり,遠洋マグロはえなわ船も,冷凍能力が進んで長期洋上操業を行うようになっている。大型の母船では漁獲の効率が悪い魚種,漁法の場合,漁船-工船の区別のある母船式が有利であろう。しかし,今後の遠洋漁業資源を考えれば,必ずしも母船式は必要とされない。母船式漁業の将来は明るいものとはいえないであろう。
→カニ工船 →北洋漁業 →捕鯨
執筆者:清水 誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1隻の母船を中心に、数隻ないし数十隻の独航船あるいは母船に搭載した漁艇とが船団を組んで漁業を行う操業形態。対象魚種によって、サケ・マス、カニ、捕鯨、底魚、カツオ・マグロなどの漁業があったが、現在は行われていない。母船式漁業では製造・加工した製品の運搬や船団の必需品の運搬にあたる数隻の仲積船(なかづみせん)(運搬船)も船団に含められ、母船は、独航船あるいは漁艇の漁獲物を処理加工して保蔵する役割をもち、燃油、清水、食糧およびその他の必需物資を補給するほか、船団員の保健にもあたった。遠く離れた漁場に、多くの漁船が単独で出漁する場合、漁場への往復日数、燃料補給、漁獲物処理などによって、漁業活動が制約を受け、漁業経営上不利な場合、母船式によって生産効率をあげることができたわけである。
日本の母船式漁業の創始は工船カニ漁業であるといわれる。1914年(大正3)農林省水産講習所の実習船雲鷹(うんよう)丸が、西カムチャツカ沖合いでタラバガニの缶詰製造を試み、ついで20年富山県実習船呉羽(くれは)丸が、カニ肉洗浄に海水を用いうることを試み、缶詰製造に成功したことが、母船式漁業の事業化への契機となった。これに次いで34年(昭和9)北洋サケ・マス漁業にも取り入れられ、本格的に操業されるようになった。母船式捕鯨は、34年、ノルウェーから船団を購入して回航の途次、南氷洋に試験出漁したのが最初で、38年には6船団の出漁をみた。第二次世界大戦中は中断したが、戦後もっとも早く再開された。北洋では40年から出漁し、ベーリング海、北氷洋海域を漁場とした。母船式底魚漁業の歴史は古く、33年ブリストル湾へ2船団出漁したが、貿易不振のため中止された。54年(昭和29)トロール船による冷凍カレイ2船団が出漁して以来著しい発展をみたが、過当競争のため64年以降漸減傾向をたどり、87年に中止された。カツオ・マグロ母船式漁業は、昭和初期に試みられたが不成功に終わり、第二次世界大戦後の1954年から漁艇搭載型、独航型の船団が組織され、65年に漁艇搭載型へ完全移行したが、漁場が狭くなって70年代はじめにほぼ消滅した。母船式漁業は日本の漁業の海外発展への原動力となったが、各沿岸国が相次いで200海里排他的経済水域を実施したことによって、各漁業とも漁獲規制や高い入漁料を課せられるなどして、中止となった。
[三島清吉・高橋豊美]
『齋藤市郎著『遠洋漁業』(1960・恒星社厚生閣)』▽『葛城忠雄著『母船式工船漁業』(1965・成山堂書店)』▽『岡本信男著『近代漁業発達史』(1965・水産社)』
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