母里藩(読み)もりはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「母里藩」の意味・わかりやすい解説

母里藩
もりはん

出雲(いずも)国能義(のぎ)郡母里(島根県安来(やすぎ)市伯太(はくた)町)に松江藩支藩として置かれた家門(かもん)小藩。1666年(寛文6)松江藩初代藩主松平直政(なおまさ)の死後、三男隆政(たかまさ)が長兄綱隆(つなたか)より新田1万石を分与されて成立した。初めは神戸(かんべ/かんど)(場所未詳)の地を与えられたので神戸藩の名もあるが、のち藩館の置かれた母里をとって母里藩という。1673年いったん改易されたが1か月後、弟直丘(なおたか)が相続を許され復活、当初は松江藩からの蔵米支給であったが、84年(貞享1)能義郡のうち18か村の封地が定められた。歴代藩主は江戸に常住する定府(じょうふ)大名で、国元では国家老が藩政を担当した。1871年(明治4)廃藩藩領は母里県となり、のち島根県に編入

松尾 寿]

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デジタル大辞泉プラス 「母里藩」の解説

母里藩

出雲国、母里(もり)(現:島根県安来市)に陣屋を置いた小藩。松江藩主・松平直政の3男、隆政(たかまさ)が、長兄の綱隆(つなたか)から1万石の分知を受け、同藩の支藩として成立。

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世界大百科事典(旧版)内の母里藩の言及

【出雲国】より

…出雲国の郡別では,島根郡50村2万2490石余,秋鹿(あいか)郡14村1万1708石余,楯縫郡15村1万2454石余,出雲(しゆつと)郡24村1万7802石余,神門(かんど)郡76村4万6135石余,飯石(いいし)郡29村2万6653石余,仁多郡43村1万6464石余,能義郡43村3万9037石余,大原郡58村3万0314石余,意宇郡36村2万9594石余で,合計すると388村25万2654石余となる。なお,66年(寛文6)初代松平直政の次男近栄に新田3万石を分けて広瀬藩を,三男隆政に新田1万石で母里(もり)藩を分家した。分封当初は蔵米支給であったが,84年(貞享1)から広瀬藩には能義郡のうち32村と飯石郡のうち24村を,母里藩には能義郡のうち17村を分割支配させた。…

【松江藩】より

…公称表高は18万石余であったが,実際の内高は25万石,32万石の記録もある。藩域は出雲国全体にわたり,能義,意宇,仁多,大原,飯石,出雲,神門,秋鹿,楯縫,島根の10郡であったが,1666年(寛文6)広瀬藩,母里(もり)藩の分封により,84年(貞享1)からは飯石郡24ヵ村,能義郡32ヵ村を広瀬藩領に,能義郡17ヵ村を母里藩領に分割した。松江藩はその初期から財政難に直面させられ,検地,新田開発,殖産興業などの収入増加策や,倹約令,半知などの経費節減を繰り返してきたが,1747年(延享4)6代宗衍(むねのぶ)は小田切備中とともに,積極的な殖産興業政策を主軸にした改革を実施した。…

※「母里藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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