比嘉村(読み)ひがむら

日本歴史地名大系 「比嘉村」の解説

比嘉村
ひがむら

[現在地名]久米島町比嘉ひが

仲里なかざとう間切のほぼ中央に位置し、東は謝名堂じやなどー村、西は山城やまぐしく村、南東部は東シナ海に面する。方音でヒジャともいう。集落は標高三―四メートルの兼久地(砂地)に立地し、後方標高四〇メートルの丘陵台地に旧集落の上比嘉ういーひざがある。絵図郷村帳に「ひか村」とみえる。琉球国高究帳では「比賀村」とみえ高頭九〇石余、うち田七九石余・畠一一石余。夫地頭比嘉(仲里間切地頭代)は旧集落地(上比嘉)が狭小だったため、まず五戸を村内謝武ざーむ(ザームは砂地の意。ジャームとも)に移転させたところ漸次発展し人数四〇〇余となったので順治五年(一六四八)謝武村を立てたという(「球陽」尚質王元年条)。「久米仲里旧記」には上比嘉のコテオロクと並里なんざとう(上比嘉の南西にあった小集落)の比屋大(ヒヤーウフー)の二人が大謝武うふざーむ(現在の比嘉集落の西側)に、真謝まーじや村のやまの五良(ヤマヌグラー)小謝武ざーむぐわー(現比嘉集落の東側)に家を建てたのが謝武の始まりとする。

比嘉村
ひじやむら

[現在地名]北中城村比嘉ひが

仲順ちゆんじゆん村・喜舎場ちさば村の北にあり、北西は越来ぐいーく間切、諸見里むるんざとう(現沖縄市)、東は渡口とうぐち村。「おもろさうし」巻二の一九に「一 やきからのほる(屋宜からのぼる)/したたりやよろい(直垂と鎧)/たるかきちへ にせる(誰が着て似せよう)/あちおそいてたす(按司襲い日子〔王〕こそ)/めしよわちへ にせれ(御召になって似せよ)/又 ひかからのほる(比嘉から上る)」とある。中城なかぐしく屋宜やーじ(現中城村)と比嘉から献上された鎧直垂を国王にこそ似つかわしいと謡っている。

比嘉村
ひじやむら

[現在地名]勝連町比嘉ひが

浜比嘉はまひが島北東部にあり、北西のばま村と合せ浜比嘉ばまひじや村として扱われることもあった。南東部には屋取集落の兼久かねくがある。琉球国高究帳に記載される「ばま嶋」に含まれていたと思われる。「琉球国由来記」などに比嘉村とある。里積記に浜村と併記され、田畑とも下の村位。脇地頭は康熙一二年(一六七三)三月一三日から翌年三月一七日まで久米村系の周氏(阿賀嶺)二世周国俊正義大夫が勝連かつちん間切比嘉地頭職を与えられ(周姓阿賀嶺家家譜)、しばらく不明の後同治六年(一八六七)一一月二〇日に久米村系の阮氏(浜比嘉家)九世阮孝銓が浜比嘉地頭職、同一三年六月一四日に一〇世阮友淑が浜比嘉地頭職を与えられた(阮姓浜比嘉家家譜)

比嘉村
ぴいがーむら

[現在地名]城辺町比嘉ひが

現城辺町の北部に位置し、南東は福里ふくざとう村、西は長間ながま村で、北東部は海に臨む。方音ではピィガー。村の創立は不明だが、雍正旧記に村名がなく、里積記の諸村位定に布上・石上として村名があることから、雍正五年(一七二七)から乾隆一八年(一七五三)の間に村立てされたとみられる。乾隆二六年一二月福州興化府・謀田県の二人の船が村の浜先に漂着、一人は存命であったため救助して届出ている(宮古島在番記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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