比田勝
ひたかつ
中世よりみえる豊崎郡内の地名。「海東諸国紀」では「皮多加地浦五十余戸」とある。大永元年(一五二一)頃「就今度国中錯乱之儀、おふひたかち」の宗左衛門大夫・宗左馬大夫・宗修理亮およびそれぞれの寄合中に対して、真っ先に馳せ参じたことを島主宗盛長が神妙とし感謝している(年未詳五月一四日「宗盛長書状」豊崎郷給人等判物写、以下断りのない限り同判物写)。彼らは当地を拠点とする者で、高麗人が漂着した件で宗氏と交渉した「比田勝中務大輔・修理同源太郎」らに通じる人々であろう(年未詳七月二三日宗晴康書状)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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