人や物の移動を指して交通という場合も多いが,ここでは主として,人や物資を人力を含めた運搬手段によって移動することを運輸,輸送として扱い,世界の古代より近代に至る歴史形成において日本,中国,ヨーロッパ,中東を例としながら,輸送がそれぞれの地域でどのように営まれてきたかについて述べる。それはとりもなおさず,各地域の歴史展開の全体像と分かちがたく結びついたものであり,輸送路,輸送手段,輸送業などのありようにかかわってくる。
→海運業 →航空 →交通 →水運 →鉄道 →道
日本における輸送の歴史は,場所を移動される物資が個人の利用に供されるものを主体とするか,年貢であるか商品であるかの物資の性格,輸送手段の差などから生じる。
古く階級支配のない原始社会にあっても石器の材料たる特殊な石,例えば黒曜石,讃岐石(サヌカイト)などは産出地が限られるため,輸送の必要があるが,特殊の輸送手段の発達がないため,人力によって輸送されたと考えられる。塩なども同様である。そのような時代にあっても,生活物資を携えての人々の遠距離移動があり,その移動・物資輸送は河海の水路を舟を使って行われたのであろう。政治支配が始まり,農民が生産物の一部を年貢として納めるようになると,年貢の輸送は年々繰り返される仕事となる。日本の古代にはすでに牛馬の飼育があり,大量の輸送には牛馬背による輸送や,舟運がみられた。少量の場合には人力による輸送が行われる。都城・寺社の建設,古墳の築造などには,巨大な材木,礎石,墳丘用の土,石室用の大石などの大運送が必要であり,そのためにそれぞれ特殊な輸送手段が利用される。巨大材運搬に修羅(しゆら)が使われるなどの例がある。律令制時代にあっては口分田(くぶんでん)の正租は郡衙(ぐんが)の倉庫に送られ,調,庸の代納物その他は直接時々の都に送られる。荘園制時代になれば,年貢は荘官,地頭,預所,本所領家など各層の得分権所有者の居所まで送られる。荘園の所在地と領主居所との間の自然条件の差によって水運や牛馬背が使われる。戦時における兵力,陣地構築資材や兵糧(ひようろう)の輸送も各時代の輸送方法によって行われ,また新しい方法を生み出す。これらは律令時代の行政目的により設けられた公道のほかに,新しい輸送路を開発する契機ともなる。輸送手段の開発は室町時代の日明貿易以後戦国後期,近世初頭にかけての渡海貿易などによって行われ,1000石積み以上の大船を生む。京都周辺では乗用の牛車(ぎつしや)の応用から生じたともいわれる物資運搬用の牛車(ぎゆうしや)を生み出す。以下,近世における物資輸送についてやや詳しくみておこう。
近世における交通について語るとき,江戸幕府の手による五街道の設置・整備を中心とすることが多い。しかし,これらの道は大名の参勤交代や幕府の地方機関などとの間の武士の交通,行政目的のための飛脚による情報伝達を主体として,物資の輸送はこれら公用旅行者の旅行用物資の輸送を主目的とした。これ以外の輸送には幕府,諸藩などの御用であることを表示した御用商人の商品が会符(えふ)荷物として行われるにすぎなかった。2里,3里の間隔で設置された宿場(宿駅)ごとに馬を替え,問屋場(といやば)口銭を支払う制度の下では,荷傷みは増し,運賃は高額になり,輸送日数が多くかかって,商品輸送の道としては不適当であった。五街道以外の地方道にあっても,大藩や多数の藩が参勤交代に利用する道には,五街道に準ずる宿場が設けられて,同じような公用優先の利用規定が定められた。これらのうちの多くは脇往還(脇街道)と認定され,宿場,宿馬の権益が保護されて,商品輸送路としては不適当のものが多かった。陸上での輸送はこれらの道の一部を特例を認められて通行するもののほか,小藩が設置して,宿場の権益を無視しうる道や,それらの設置のない道を利用して行われた。輸送者は宿場があっても馬を替えないで1日行程を歩き,口銭が安いか,払わない特権をもち,なかに積荷の価額に応じた保証金を,敷金と称して馬方が払うものもあった。信州,甲州や三河の中馬(ちゆうま),会津・那須地方の中付駑者(なかつけどちや)などがその著例である。これらは馬または牛を使い,1頭30貫前後を積むが,馬方1人で3,4頭を追うことによって輸送量を増している。都市まで輸送するものもあるが,舟運のある河川の上流部の河岸(かし)まで運び,以後を舟運にゆだねるものもあった。
江戸時代初期に長距離輸送されたものの中心は,年貢として領主の手に納められた米その他蔵物(くらもの)と呼ばれる諸物資である。米を中心に年貢の輸送の方法を述べると,幕府直轄領では納入のための輸送は5里内農民負担で,各地の御蔵へ納入される。江戸周辺では近傍河岸までの輸送を牛馬背などで行い,以後舟運で浅草御蔵に納められる。各地の代官所領では代官所に集まった年貢米のうちから代官所勤務者の禄米その他必要経費分を支払うように一部を所払いにして,残りを江戸に送る。出羽村山地方(現,山形県村山市周辺)の年貢米は大石田で船替えをして最上川を酒田に下し,酒田から日本海を西廻海運で大坂に送り,さらに江戸に船積みする。諸藩の年貢米も大所領の場合には藩内所々の代官所の蔵に集められ,その所在地や城下町で一部地払いし,残部は大坂,江戸に送られ,一部は江戸住み家臣に現米を給与し,大部分は大坂,江戸で換貨される。その間の輸送は沿岸舟運を用いている。大坂には諸国の年貢米が年々200万石前後荷揚げされ,蔵屋敷を通じて商人に払い下げられた。
江戸時代の経済の性格については領主の年貢米の販売,流通のほかに大きな商品の輸送,流通はなく,農民経済は自給経済であり,藩内で流通は完結するようにいわれる。しかしこれは幕藩経済の基本を典型として示すか,明治以後に比べて比較的商品流通の少ない経済を意味するものである。事実は17世紀中葉以来,大坂周辺を中心に農民経済も流通過程に巻き込まれていく。とくに都市生活の必需品である衣料,灯油,野菜などを手始めに,その原料である農産物や加工品は商品として売るためのものに変わっていく。酒,しょうゆ,みそなども都市消費の多くの部分が商品となる。それらの多くが18世紀中は上方から江戸へと送られる。これらの輸送も多く舟運を利用し,大坂~江戸間には菱垣廻船(ひがきかいせん),樽廻船を発達させる。琵琶湖舟運は敦賀~上方間を結ぶ公用の年貢輸送のため発達するが,やがて商品輸送の具となる。海岸地帯には公用輸送のほかにも商品輸送のための船舶を多く備えるものを増していく。大量物資の輸送には河海の舟運が主体となるが,輸送日数が多くかかるのと,荷濡れ,難破(海難)による損害(海損)が多いため,幕末期には日本海側と江戸,大坂近傍とを二つの河川舟運末端との間に牛馬背の道を開いて結ぶ計画が数ヵ所で立てられている。さらに紅花,絹などの軽量,高価の商品輸送には,迅速で荷傷みの少ない,陸上の馬背輸送が用いられることもあった。
江戸時代を通じての一般的輸送用具は牛馬と舟であり,人の背による近距離・少量の運搬には背負ばしごの類や背負籠,物によっては天秤棒などが用いられたが,江戸,大坂などでは大八車,べか車の人力用荷車が用いられ,京都周辺や江戸周辺,さらに駿府,仙台などでは牛車が用いられた。江戸の牛車は初期には400貫積みとされ,享保期(1716-36)以後の記録では200貫とされたが,中期以後大八車に押されて台数を減じていく。京都周辺のものは積載量はかなり少なく,京都周辺のほか,大津~京都~伏見間を活動範囲としている。牛車のために京都~大津間に車道が道路の片側につくられ,花コウ岩舗装が行われた。江戸では土木事業の際の土石の運搬などで公用に使われ,京都では二条城の御蔵へ年貢米を運ぶ公用のほかは一般商品の輸送に当たった。
明治維新以後は政治・経済の一般的変化とともに輸送の量,方式,用具ともに一変した。変化の経済的要因には明治をさかのぼること10年,安政の開港(1859)による輸出入商品の横浜から各地へ,各地から横浜への新しい商品の流れが一つの条件となり,さらに年貢の代金納,地租改正が加わり,政府の近代工業の奨励の成果が明治10年代に表れはじめること,それらに対応する蒸気船,鉄道の導入が新しい条件をつくった。
1875年以後,車両類も地方税賦課の対象となったことや,各種の統計調査が行われるようになったことから輸送用具の変化,増減の動向も知られ,鉄道敷設の進行のあと,取扱貨物量の増加のあとも知られる。まず明治10年代初頭から荷車が乗用の人力車とともに地方小都市にも広く普及しているあとが知られ,10年代半ばからは関東,東山,東海地方で荷馬車が急速に増加していく。近畿以西では荷牛車が普及する。鉄道は横浜,神戸(兵庫),敦賀などから後背地に向けて建設されはじめ,やがて連絡されて88年には東海道線が全通する。炭鉱地帯と積出港を結ぶ鉄道,養蚕製糸地帯と東京を結ぶ鉄道が建設され,後者の一つは東北へ向かって延び,また山陽鉄道も私鉄として建設されて国内の鉄道網がつくられていく。米作中心地と大消費地を結ぶ鉄道も徐々につくられて,国内遠距離輸送は鉄道に,中距離輸送は荷馬車,荷牛車に,近距離輸送は荷車によるという明治中期から昭和戦前期にかけての輸送体系が形成される。その間輸送されるものは,ほとんど商品となり,大都市の周辺には労働力商品を運ぶ近郊通勤電車も開設されるようになる。輸送商品量は工場制工業の発展とともに大量化する。この間,鉄道敷設の進行とともに,江戸時代の主要内陸輸送機関であった河川舟運は姿を消していく。
幕末に薩摩藩は蒸気船づくりを試み,日本人のみの手で模型艦をつくり,江戸藩邸に近い海に浮かべて航行したことがある。しかし工費のかさむことから本艦製造を断念した。以後,外国船の購入に方針を変え,さらに蒸気船から帆船へと船種を変えたことがある。西欧型船へ移行する試みは明治になると民間でも進み,その結果,1879年度の軍による調査では,西洋型船舶が蒸気船171艘,帆船231艘あることを明らかにしている。蒸気船中68艘は50馬力以上とされる。50馬力以上の蒸気船は東京43,大阪16を中心に,横浜,徳島,高知,鹿児島,函館にある。小型蒸気船のなかには琵琶湖周辺に17艘,利根川流域に1艘があって,湖や川でも用いられている。旧来の和船100石積以上のものは広く全国の港町にあって明治初年には沿岸航路に就航していた。当初,外国船の購入に始まった蒸気船は,国内造船業の発達によって国産化され,沿岸舟運はもちろん海外渡航にも従事し,輸送の中心となった。
自動車(トラック,トレーラー)を中心とする現在の陸上運輸体系への先駆としてのトラック採用は大正末・昭和初年から始まるが,本格的な展開は,昭和30年代初頭に国の助成をうけて動きだした自動車産業が定着し,全国総合開発計画と地方都市の工場誘致運動の成果が表れてくる昭和40年代以後といってよいであろう。
執筆者:古島 敏雄
古来〈南船北馬〉といわれるように,中国の交通輸送手段は,黄河と淮河(わいが)の中間を境として二分され,南方では船,北方では馬あるいは車が主力を占めた。交通路もまた,秦・漢時代以来ほぼ一定していたと認められる。北京を起点としてみると,(1)山東西部を経て揚州に至り,長江(揚子江)を越え,鎮江,蘇州を通って杭州に達し,さらに福建に延びる線,(2)河北から山東,安徽を縦貫して江西の九江に出,南下して韶州(しようしゆう),広州に至る線,(3)河北より河南,湖北を経て武昌あるいは荆州(けいしゆう)に至り,さらに長沙を通って韶州または桂林に向かう線,(4)北京から山西を通って陝西に至り,渭水(いすい)の上流から漢中を経て四川の成都に達する線,に分けられる。これらが南北を通ずる幹線であった。これに付随して湖南西部から貴州,雲南に抜ける線,四川南部から貴州,雲南へ向かう線などが支線として存在した。これらの幹線を連絡して東西に走る線は幾つもあるが,とくに長江は四つの南北幹線を結びつけ,かつ華中を横に連絡する交通路として,最も重視されてきた。
以上の交通路に対して,歴代王朝はいずれも管理官庁を設け,その維持に努めた。早くから道路を整備し,河川には橋梁をつくり,要地には関津を置いたほか,駅伝などの交通・通信の設備を併置した。その一部ないし主要部に河川湖水を利用したところがあり,最もよく知られているのが大運河で前述(1)のルートに当たる。大運河の完成は隋代のことであるが,それが効力を十分に発揮したのは宋代以後であり,穀倉地帯である江南の産米を北方の政治の中心地に運ぶ輸送路として重要な役割を担っていた。大運河はまた民間にも開放されていたから,旅客はもとより,各種の貨物もこれによって運ばれ,華北から南方に赴くものは,陝西や四川に行く場合を除き,ほとんど大運河を利用し,上述(2)(3)の交通路をたどらないのが通常であった。このほか,長江を第一とし,黄河,渭水,漢水,洞庭湖,湘水(しようすい),西江(その支流である桂江)などが重要な水路であり,洞庭湖から湘水をさかのぼり,霊渠によって桂江に出ると広州に達することができた。この河川の交通路はすでに秦・漢時代に開設されており,これを利用すると,広州から船に乗ったままで長江に至り,さらに大運河を通って北京や長安に行くことが可能であった。もっとも,船は途中で何度も乗り換えねばならなかったが,河川によって南北が結合されたことは交通と輸送を便利にし,商業の発達,全国的市場圏の形成を促進した。商業の発達は農業や手工業の生産を刺激,拡大したばかりでなく,学問や芸術なども,この交通路によって伝播したから,その存在意義は非常に大きかったというべきであろう。中国の国家と社会が早くから統一を保ちえた一因は,この交通路の存在にあると認めてさしつかえない。
これに対し,海上交通は比較的遅く,唐・宋時代以後にようやく発達した。中国の近海は長江の江口を境に南北に分かれ,南方の海は多島ではあるが水深く航行に適していたが,北方には砂州が多くて水浅く,難所が多い。したがって,江口以南ではかなり早くから海上交通は発達したが,以北にあっては時期が遅れ,元代以後に初めて実用化し,明代に一時後退したが,清代,とくに19世紀の中期以後,運河の輸送力が低下するとともに,主要交通路の一つに加えられるに至った。イギリスその他の国々が汽船を使って,長江や沿海地区に定期航海業を営み,これに対抗して清朝でも招商局などの汽船会社を設立し,航海業を拡充したからである。なお,鉄道の開設は1881年(光緒7)唐山~胥各荘(しよかくそう)間に始まり,1905年に京漢鉄道(北京~漢口),12年に津浦鉄道(天津~浦口)が竣工して,新しい交通体系の時代を迎えるに至った。ただし,その線路の主要部分は古来の交通路に沿って敷設されている。
これら交通路の沿線,ことに内陸交通路の周辺には幾つもの職業が成立した。倉庫・旅館業,鏢局(ひようきよく)(護送業)などであるが,運輸労働者の存在はとくに注目されねばならない。国有物資を河川や運河によって京師に輸送する制度は漕運と呼ばれ,兵士や雇用者が任務についたが,民間の物資を扱う業者も多く,そこに働く労働者は少なくなかった。彼らの大部分は最下層民であり,就業状況はただちに治安問題として表面化した。失業すると,彼らは反政府活動に走り,反乱は交通路に沿って全国的規模に拡大した。太平天国がその好例で,南京条約に基づく上海開港が引き起こした輸出入商品の輸送径路の変更を一因として起こり,広西から(3)のルートを北上し,長江を下って南京に進攻した。また,運河の労働者の間に結成された互助自衛組織は,やがて秘密結社である青幇(チンパン)へと成長し,大運河の沿線から上海などの都市に勢力を振るい,近代史の暗黒面を代表したことは広く知られている。
執筆者:寺田 隆信
輸送の歴史は,産業革命の一環としての運輸革命transport revolutionを境に大きく二分される。この革命によって蒸気機関をはじめとする動力が導入されるまでは,輸送のためのエネルギー源は,人力,畜力および風力や水流のような自然現象に頼る以外になかった。西欧の陸上輸送では,当初は人や馬の背に背負う方式や橇から,しだいに馬車が中心となっていった。馬車以前の時代には,道路も簡単なものですんだが,馬車を通すためには十分な整備が必要になった。古代ローマ帝国においては,戦車が発達したこともあって,ローマのアッピア街道やイギリスのウォトリング・ストリートなど史上有名な街道がいたるところで整備された。この時代には,戦車のほかに荷馬車もかなり使われるようになったと思われる。政治権力が細分化された中世には,一般にあまり道路網は整備されなかったが,遠隔地交易の拠点に当たったフランドルやシャンパーニュとイタリアを結ぶアルプス越え(ザンクト・ゴットハルト峠などを経由)のルートなどが整備された。近世初頭以降は,経済活動が活発になったために荷馬車の往来が激しくなり,道路の改善が社会的課題とさえなった。とくに経済発展の著しかったイギリスでは,1663年以降,有料道路(ターンパイク)がつくられはじめ,18世紀末までにはロンドンから放射状に地方へ向かう有料道路網が,ほぼ全国を覆うようになった。産業革命期には,T.テルフォードやJ.L.マッカダムが出現して,技術的にも一新された。
一方,水上の輸送も当然太古の昔からみられ,とくに重いものの輸送にはこの方法が不可欠であった。古くはフェニキア人,ギリシア人,ローマ人などが優れた造船・海運技術を示し,古代のエーゲ海や地中海は海運のメッカとなった。また,北方ではノルマン人がとりわけ優れた航海技術を誇ったが,これらの技術は中世を通じて伝承され,14世紀に羅針盤が導入されると,遠洋航海もその危険が大幅に減った。地中海では,戦闘用のガレー船とは別に,比較的横幅の広い運搬用の帆船も開発され,商業用に活用された。イタリア諸都市やハンザ商人の日常的な交易活動のほか,十字軍兵士の輸送などにも,海上輸送が重要な役割を果たした。
しかし,水上輸送の場合も,急激な成長はいわゆる〈大航海時代〉以降にみられる。17世紀に世界商業の覇権を握ったオランダは,北海におけるニシン漁用の特殊船と,木材,造船資材,穀物などの〈かさばる商品〉を扱うバルト海貿易用に,地中海諸国の開発したカラベル船よりはるかに輸送コストの低いフライト船を開発,その繁栄の基礎とした。また,17世紀に最大級の船舶を用いたのは東インド貿易で,ここでは数百トンという巨大な船が使われた。18世紀になると,帆船による遠距離輸送はますます盛んになり,大西洋やインド洋はかつての地中海のように世界経済の内海となった。大西洋では奴隷や移民,砂糖,タバコなど,インド洋では茶,綿布などがその主要な積荷であった。1807年にR.フルトンが蒸気船を発明し,19年にはサバンナ号が蒸気船として初めて大西洋横断に成功したが,なお経済効率の点から,19世紀中ごろ過ぎまでは木造の帆船の優位が続いた。
水上の輸送としては,沿岸航海や内陸部のそれも重要な意味をもっている。前者の典型的な例は,17世紀以来,イングランド北東部の炭鉱地帯からロンドンへ石炭を運んだ石炭船に認められ,この航海は〈イギリス船員の養成所〉とさえ呼ばれた。内陸部の水運には,湖沼,河川,運河によるものなどがあり,ライン川やドナウ川など,ヨーロッパの大きな河川はほとんどこの目的に利用されたし,アメリカでは五大湖やミシシッピ川が利用された。ヨーロッパでは一般に河川の水流が穏やかなため,一定の改修を加えることで容易に航行可能となった。イギリスでは,17世紀から河川改修が急速に進んだ。同じころ,いっそう先進的なアムステルダムでは,多くの直線運河がつくられて内陸運輸の主要な手段となったし,19世紀前半までには,2度の運河狂時代を経験したイギリスをはじめ,ヨーロッパ大陸でも,石炭・鉄工業地帯を中心に,ほぼ全国的な運河網が完成する。河川の遡航や運河の航行には,主として馬が動力源として使われた。
以上のような産業革命期までの輸送には,陸上輸送では宿屋,水上輸送では港湾施設などの補助施設が不可欠であり,それぞれの場所で荷役を行う沖仲仕やポーターなどの組織も発達した。ロンドンの場合,陸上でも水上でも,市内の荷役は特権ポーターの職掌となっており,彼らの手を借りないではまとまった量の地方の商品を市場に持ち込むことはできなかった。鉄道出現前の馬車輸送の黄金時代には,宿屋もまた繁栄を極め,駅舎,ホテル,倉庫,取引所,文化センターなどとして,地域の生活文化の核となる役割を果たした。
工業化の波が押し寄せた19世紀には,輸送のあり方も一変した。蒸気機関が動力源とされるようになり,鉄道網の世界的普及,鋼鉄製蒸気船の発達,さらに内燃機関を利用した自動車や電車の普及,ディーゼル機関の出現などがあり,また航空機の出現によって,第3の次元(空路)の輸送が可能になった。
執筆者:川北 稔
イスラム世界は東の中国,インドと西のヨーロッパ,アフリカとの中間に位置している。このような地理的条件に縛られたこの世界の輸送問題は自己完結的に終わってしまうことができず,有史以来,つねに海にしろ,陸にしろ輸送ルートの中継地,交流圏という枠の中で機能を果たしてきた。陸上輸送,海上輸送の順でこの問題をみてみよう。
7世紀から19世紀前半までの陸上輸送はキャラバン(隊商)が最も一般的な形式であった。これは駄獣に荷を積み,人を乗せて一団を組んで移動していく集団輸送のことをいう。そのルートを隊商路というが,時代によってルートそのもの,またそれらが集まる交通上の中心都市は変遷を重ねている。8世紀から10世紀までの初期イスラム時代においては,アッバース朝(750-1258)の首都であったバグダードが隊商路の交錯する所であった。とくにインド洋からペルシア湾に入り,地中海に抜ける中継ルートが繁栄の基礎になっていた。10世紀を過ぎると,インド洋から地中海へのルートが紅海経由に変わり,ファーティマ朝(909-1171)の首都カイロに隊商路が集まるようになった。この状況はアイユーブ朝,マムルーク朝の時代にも変わらず,15世紀末まで続いた。この間,13~14世紀にモンゴル系遊牧民がイスラム世界へ侵入,支配した結果,モンゴル高原,中国から中央アジア,イラン高原,アナトリアへと通じる〈草原の道(ステップロード)〉〈絹の道(シルクロード)〉の重要性が高まり,駅伝が整備されたことによって大幹線として栄えた。15世紀末,バスコ・ダ・ガマが喜望峰回りの新航路を開拓すると,カイロを中心とした隊商路と紅海経由のインド洋,地中海を結ぶ海上ルートはその重要性を低下させていった。しかし,1453年,すでにオスマン帝国がコンスタンティノープルを征服したことによって,イスタンブールを中心にアナトリア,バルカン半島,アラブ諸地域を結ぶ輸送のネットワークが新たに再編されて近代に及ぶことになる。
キャラバンとは,何人かの商人,輸送業者が集まって相互に契約を結び,協力して危険を防ぐために隊を組んで目的地まで人と物を運んでいくシステムのことである。これによって実際の交易,貿易が行われ,巡礼をも含めた必ずしも商用を目的としない旅が行われた。隊商には1人の指揮者がおり,彼の責任において行路や宿営地の決定がなされた。利益の配分は,隊商の性格が一時的に結成された混成集団であるということを反映して,隊商全体で決済されるということはなく,参加メンバーの個々の決済に任された。資本をもたず,雇われただけの商人は,ふつう利益の4分の1を自分のものとし,残りを出資者に渡すことをつねとしていた。駄獣としておもに使われるのは,ラクダとラバであった。ラクダは旅が長期間にわたってもわずかの水ですむ耐久力をもち,個々のラクダによって違うが,130~270kgもの重い荷物を運べる能力をもっていた。ただ欠点は,険しい坂道を上下することを苦手としていたことで,高原地域での輸送に適さなかった。種類はヒトコブラクダとフタコブラクダの二つがあり,中央アジアを境にして前者は西に,後者は東に主として分布している。しかし,フタコブラクダは中央アジアより西にも見られることがあり,アナトリアでは交配技術のくふうにより,〈ヒトコブ半〉の力の強い新種をつくり出した。ラバは,身体は小さいが80kg程度の荷物を運ぶ力をもち,体格が同じくらいのロバと比べると,長期間の耐久力に優れている。ラクダとともによく使われる駄獣であった。隊商規模はサハラの塩金貿易のように数千頭からなる隊商が組まれることもあったが,平均して1000頭程度,編成の時期は暑熱,酷寒の時期をはずして春,秋に行った。編成回数はバグダード,ダマスクスのような大都市でもせいぜい年に3~4回ぐらいであった。移動距離は季節,地域,使う駄獣の種類によって異なるが,1日に20~25km程度であった。
海上輸送は,キャラバンの陰にかくれてともすればその重要性が見落とされがちである。しかし,イスラム世界はインド洋と地中海を舞台に早くから船による輸送を発展させていた。船は積載量と遠距離航海が可能なことで陸上輸送のキャラバンより優れていたが,欠点は輸送の季節が限られること,航海の危険度が高いこと,遭難が現実に起きた場合,損害が大きくなることであった。インド洋と地中海とではそれぞれ造船技術,航海法において著しい違いがある。インド洋では,6ヵ月交代で一定方向に吹くモンスーン(季節風。アラビア語で〈季節〉を意味するマウシムが語源)を利用して冬に北東から南西に向けて航海し,夏は逆に南西から北東に向かって航海を行った。この季節風を利用すると3週間から1ヵ月にわたる連続航海が可能であった。船は,シュメール・アッシリア時代に起源をもつティグリス,ユーフラテス川で使われた葦船の系統をひき,ダウdhowと呼ばれた。これはインド,東南アジア産のチーク,ラワン,ココヤシなどの木材を使い,タールと縄で縫合した三角帆の船である。小型ながら1日に200~250km走ることができ,ふつう25~30隻の船団を組んで航海した。
他方,地中海では風は,夏にゆるやかな西風が吹くくらいで安定した一定方向に吹く風を得ることができず,冬は荒天がつづき航海がむずかしかった。とくに,季節風がないということは,遠距離の連続航海を不可能にし,沿岸を停泊しながら行く航海の方法か,キプロス,ロードス,クレタ,マルタ,シチリアなどの島々を結んで航海をしていくか,いずれかの方法を選ばなければならなかった。地中海では,風力が十分に得られないため,人力を利用した船が早くから発達した。その典型が古代ローマのガレー船である。これは奴隷を多く乗せなければならないため,荷物の積載量を少なくしなければならず,1人が1t程度の荷物しか持ち込めなかった。しかし,11世紀以降,イタリア商人,とくにベネチア,ジェノバの船隊が地中海の海上輸送を牛耳る時代になると,インド洋で行われていた三角帆を人力と組み合わせて使う丸型帆船が現れ,これによって飛躍的に積載量が増え,1人10t程度の積込みも可能になった。地中海は,7~10世紀のアラブの進出によってベルギーの歴史家H.ピレンヌが〈ローマ・ビザンティンの海〉から〈イスラムの海〉に変わった,と言ったこともあるが,11世紀以降,十字軍とベネチアを中心とするイタリア商人の進出によって,イスラム教徒,とくにアラブの航海者は地中海から締め出され,北アフリカの沿岸航海ですらジェノバに抑えられる始末であった。11~13世紀に地中海の東西で活躍したユダヤ人商人たちもみずから航海者になることはせず,イタリアの船を利用して商売を行っていたことがカイロ発見のゲニザ文書などで知られる。16世紀以降,オスマン朝はベネチア,ジェノバがもつ地中海の商業上の拠点,城塞をつぎつぎに陥落させて制海権を掌握したが,航海者はビザンティン以来の伝統をひくギリシア系の船乗りであったり,イタリア商人であったりした。
19世紀半ばから後半にかけて,地中海,黒海,インド洋,カスピ海に蒸気船が就航し,1869年にスエズ運河が開通すると帆船の時代は終りを告げた。また陸上でも鉄道,バス,トラックが登場してくるとキャラバンは姿を消していった。このような近代的輸送手段の出現は,香料とか絹とかの奢侈品を運んで中間利益を得ていたイスラム世界の伝統的な輸送体系を完全に切り崩し,ヨーロッパ資本主義の市場に組み込むかたちで,その製品を大量に安く運ぶ輸送体系に編成しなおしていった。
執筆者:坂本 勉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
輸送とは、一般的に、人間の意志に基づく人および貨物の、社会的に公開された施設による場所的移動である、と定義される。
人間の意志に基づく場所的移動とは、自然現象としての移動ではなく、人間がある目的をもって行う、場所的懸隔を克服するための移動であることを意味する。社会的に公開された施設による移動とは、同一経営体内部における生産、販売、業務そして学習などのための人および財貨の移動ではなく、公衆の利用できる公開された施設、たとえば道路、鉄道、船舶および航空などのような施設による移動であることを意味する。
交通と輸送とは非常に類似した概念であるが、交通のほうが輸送より広範な内容をもっている。交通には、人および貨物の場所的移動に加えて、通信という人間の思想、感情および情報などの場所的移動が含まれている。
[野村 宏]
人および貨物の場所的移動のためには、輸送手段が必要になる。輸送手段は通路、運搬具および動力という三つの労働手段から成り立っている。通路は場所的移動のための施設で、鉄道、道路、河川、湖沼、海洋、空路、パイプラインなどがある。運搬具は、これら通路によって、人や貨物という輸送対象を積載して場所的移動を行う労働手段であり、それぞれ利用する通路の物理的特性に対応し、鉄道客車・貨車、自動車、船舶、航空機などがある。動力は通路によって運搬具を移動させる手段であり、現在では、主として石油系動力、電気動力などの機械力が使用されている。輸送の長い歴史の過程では、帆船にみられるような風力、荷馬車にみられるような畜力、ときには荷車や人力車のように人力なども使用された。
[野村 宏]
輸送機関の生産する輸送サービス(用役)の特性は、他の商品生産の場合とは異なり、輸送対象になんらの物質的変化を与えず、ただ場所的変化をおこすのみであること。また、輸送サービスの生産過程は、同時にそのサービスの消費過程である。つまり、輸送は即時性をもつことに特徴がある。さらに、輸送サービスの特性を示す項目としては、高速性、迅速性、経済性、快適性、便利性、安全性などの項目があるが、国や地域によっては治安度をも加えることもある。
輸送には、個人や企業が自己のために輸送する自家用輸送と、他人や他の企業のために輸送する営業用輸送の2種がある。具体的にいえば、自動車ではマイカーやカンパニー・トラックは自家用輸送を行い、タクシー、路線バス、観光バス、特別積合せトラック(1989年の規制緩和以前の道路運送法では、路線トラック)、一般トラック(規制緩和以前では、区域・貸切トラック)などは営業用輸送を行っている。鉄道、海運そして航空などにあっては、営業用輸送が圧倒的に多い。そして、これら営業用輸送を担当する企業が輸送企業であり、同一種類の輸送企業の集合体が各機関別の輸送産業である。
[野村 宏]
近代的意味をもつ輸送産業の成立とその発展は、資本主義の発生、発展と密接な関係をもっている。資本主義成立以前には、主として自家用輸送が輸送の中心であったが、成立とともに自家用輸送から他人や他人の貨物の輸送を行う営業用輸送が分離独立し、鉄道や海運という近代的な輸送諸産業が成立した。蒸気機関の発明によって、鉄道会社、汽船会社が群出し、輸送産業は非常な隆盛を迎えた。さらに、20世紀に入ると、新しい技術革新としてガソリンエンジンなどの内燃機関が出現し、自動車輸送や航空輸送の諸産業が隆盛を迎えた。その結果、鉄道、海運という在来の輸送産業と、自動車、航空という新しい輸送産業の間の競争が生じたが、結果は、後者の有利のうちに推移している。
日本国有鉄道のJR各社への分割・民営化も、鉄道輸送が、他の輸送機関と激しい競争関係に入り、陸上輸送市場における独占性を喪失した結果である。とくに、モータリゼーションの進行により、鉄道、路面電車、路線バスなどの公共的輸送機関の需要が減少し、過疎地域や都市の一部では、これらの輸送サービスの提供が停止される事態となり、いわゆる交通弱者the transportation poor問題が発生した。交通弱者とは、高齢者、子ども、妊婦、障害者そして貧困者などをさす。近年はとくに高齢者問題が大きくなっている。これらの人々のモビリティ(動きやすさ、可動性)を維持することが必要と判断された場合には、国あるいは地方自治体等が種々の努力を重ねている。補助金の交付、コミュニティバスの運営等がそれである。
営業用輸送には、不特定多数の乗客や不特定多数の荷主の貨物を運ぶという公共性がある。そのため、運輸企業の参入および退出の規制、運賃水準および制度の規制、ダイヤなどサービス水準の規制など、政府による種々の規制が歴史的に課せられている輸送産業が多い。しかし、欧米を中心とした経済規制緩和の動向は、各国の運輸産業にも及び、運輸規制の廃止もしくは緩和が進行した。また、日本においても運輸規制は大幅に緩和されている。
[野村 宏]
日本における規制緩和deregulationは、1990年代より行われた。アメリカの場合と同じように輸送産業が先行し、その結果輸送業界に大きな変化が生じた。
規制の理由は輸送産業の公共性にある。規制には、経済的規制(参入退出の規制、サービスの質の規制、運賃料金の規制)と、社会的規制(消費者保護、労働者保護、安全の確保、環境保全等)の2種がある。規制緩和とは前者の経済的規制の緩和をさし、この緩和に伴って、他方では社会的規制の強化が行われるのが一般的である。アメリカではデレギュレーションは文字どおり規制撤廃であったが、日本では規制緩和となっている点に特徴がある。
規制緩和の進行をみると、1989年(平成1)の貨物自動車運送事業法、やや遅れて2000年(平成12)に航空法、また同年に鉄道事業法、2002年2月にバス、ハイヤー、タクシー等に関する道路運送法が、陸続として改正され規制緩和による法体系はいちおうの完成をみせた。その結果、参入退出規制による需給調整から市場依存へ、サービスの自由化によるルートの新設・撤廃の自由化、運賃料金規制の緩和による弾力化などが行われた。そして一方では、各輸送産業において、運賃料金の低下、サービスの向上などの積極的効果がみられた。しかし他方では、輸送市場への企業の過剰参入、その結果としての経営状態の悪化、収益力の低下による賃金水準の低下、長時間労働・長時間運転の発生など、労働条件の低下、ときには重大事故の発生といった安全性の低下などがみられるようになった。また、需要の少ないローカル地域への航空・鉄道・バスの路線廃止といった供給途絶などもみられるようになった。そこで一部には再規制reregulationが必要とする意見も出ている。ともかく、社会存続のためのインフラストラクチャーとして、輸送の公共性を維持することは不可欠で、今後も慎重な調整を続ける必要がある。
[野村 宏]
輸送が人および財貨の場所的移動である限り、運搬具の走行に伴う公害が生ずる。排ガスによる大気汚染、排出油による海洋汚染、道路沿線や空港周辺の騒音・振動、さらには電波障害などがそれであり、各輸送機関にはこうした公害を抑制するための社会的規制が課され、それぞれの産業はその防止に努力している。
[野村 宏]
『野村宏著『輸送産業』(1980・東洋経済新報社)』▽『塩見英治編著『交通産業論』(1994・白桃書房)』▽『内橋克人他著『規制緩和という悪夢』(1995・文芸春秋)』▽『中条潮著『規制破壊――公共性の幻想を斬る』(1995・東洋経済新報社)』▽『野尻俊明編著『知っておきたい流通関係法』(1998・白桃書房)』▽『日本交通学会編『交通経済ハンドブック』(2011・白桃書房)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…人や物の空間的移動をさし,広義には情報の伝達である通信を含めるが,人や物の移動は運輸,輸送あるいは運送などと呼んで,通信と区別することが多い。
【歴史】
[古代・中世]
人はそれぞれ生活の場をもつ。…
※「輸送」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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