水崎村(読み)みさきむら

日本歴史地名大系 「水崎村」の解説

水崎村
みさきむら

[現在地名]上那賀町水崎

桜谷さくらだに村の南、那賀川上流の北岸山間部に位置し、東は花瀬はなぜ村・蔭谷かげだに(現相生町)に接する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「見崎村」とみえ、那西なさい郡に属した。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳、天保郷帳などに記載がなく鮎川あいかわ(現相生町)の高に含まれるとみられる。文化一〇年(一八一三)の高都帳によると高二三石余。


水崎村
みずさきむら

[現在地名]西区元岡もとおか太郎丸たろうまる桑原くわばらなど

今津いまづ湾の入海瑞梅寺ずいばいじ川河口部の干潟干拓して成立した新開地。近世前期までは今津村桑原村・元岡村・太郎丸村田尻たじり村の地先に広がる干潟で、寛文五年(一六六五)・天和二年(一六八二)・元禄四年(一六九一)と福岡藩の主導で干拓が実施され、七〇町ほどの田地が開かれた(続風土記拾遺)。この新開地は水崎五ヶ村御開(西御開)とよばれ、その土地は五ヵ村に分配された(「万覚書」是松家文書)。元禄一三年に国絵図・郷帳作製にあたって「村居有之新田」として書出され、その際元岡村枝郷西新田村から枝郷水崎村に村名を改めた。高八一〇石余。なお延宝五年(一六七七)の開発、天和二年の起し立て、貞享元年(一六八四)に新田成立と届出た(「郷帳」九州大学法学部蔵)


水崎村
みずさきむら

[現在地名]豊後高田市水崎

田笛たぶえ川を挟んで高田たかだ村の南西に位置し、西境寄藻よりも川が北流する。豊前国宇佐郡に属した。領主変遷上来縄かみくなわ村に同じ。慶長五年(一六〇〇)豊前中津藩(のち小倉藩)藩主細川忠興は千利休の長男道安に三〇〇石を与え、水崎に転居させたという(「細川家記」豊後高田市明治百年)。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三〇二石余、人数二一一(うち百姓三一・名子一一・川口番一・鍛冶一・坊主一)、牛一三・馬一二。安永三年(一七七四)の島原藩領郷村帳(島原半島史)では高二四二石余、ほかに同所新田五六石余がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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