太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]西区太郎丸・太郎丸一―四丁目
田尻村の西、瑞梅寺川の最下流部左岸にある。志摩郡に属し、南は同郡板持村(現前原市)。土地が低く、用水不足・排水不良に苦しむ一毛作田地帯で、しばしば瑞梅寺川氾濫の被害を受けた(元岡村誌)。嘉禄二年(一二二六)九月一五日の仁和寺御室庁下文(誓願寺文書/鎌倉遺文五)に「太郎丸名」とみえ、同名三町と次郎丸名三町が怡土庄鎮守とされる今津宮に大般若経免田として宛行われている。両名は怡土庄志摩方田尻の内で(年月日未詳「田尻村名寄」児玉
採集文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書)など)、文和二年(一三五三)には太郎丸名の葭原勘解由左衛門尉跡の田地一五町と稲福孫四郎跡の田地三町などが、兵粮料所として細峯城衆得永助五郎(実種)と同一族中に預けられた(同年四月二九日「一色直氏宛行状」徳永文書/南北朝遺文(九州編)三)。なお正平一八年(一三六三)三月一五日の宇美宮領田地坪付写(児玉
採集文書/南北朝遺文(九州編)四)には「太郎丸内寛野丸」一反三丈が記され、一部宇美宮(現前原市)領が設定されていたとも考えられる。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]喜多方市豊川町米室
濁川を隔てて松野村・堀出新田村に位置する。北は塚原村、南は綾金村。小荒井組に属した。かつて八幡太郎源義家が当地に宿陣したことが村名の由来と伝える(新編会津風土記)。一方、「会津鑑」によると古くは切勝村と称していたといい、永禄一一年(一五六八)当地の領主三浦掃部介盛次が自分の幼名にちなみ太郎丸村と改めたという。古くは本村の北、濁川と押切川の間に上太郎丸村という端村があったが、水災に苦しみ本村の西側に移転した。しかし五軒ほどあった集落もしだいに家数が減り、文化年間(一八〇四―一八)には廃村となっていた(新編会津風土記)。「家世実紀」元文五年(一七四〇)二月五日条には「太郎丸村端郷上太郎丸・八幡神社、度々洪水ニ而欠崩候ニ付、畠方へ移度由願之通被仰付」とみえる。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]穂波町太郎丸・天道
嘉穂盆地のほぼ中央部、内住川の右岸に位置し、村内を穂波川が流れる。同川沿いに長崎街道が通る。西は椋本村、南東は大将陣山が吉隈村(現桂川町)との境をなす。同山は白雲山とも称されたが、山名は藤原純友を討つため多田満仲が布陣したという伝承に基づくという。また足利尊氏もここに陣を布いたとされる(続風土記拾遺)。「続風土記」は天当町・高松村を枝村とする。天文一八年(一五四九)九月四日の陶隆房書下(「防長風土注進案」一五)によれば、陶氏家臣渡辺勝一は「穂波郡太郎丸内拾五石地」を太幻院殿(陶興房)の証判に任せて安堵されている。村内の高松の在地領主に高松氏がいた(正応二年四月七日「関東下知状写」新田神社文書/鎌倉遺文二二など)。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]砺波市太郎丸・春日町・中央町・豊町・三島町・表町・太郎丸一丁目・山王町・幸町・東幸町・花園町・一番町・宮沢町・平成町
大辻村の東にあり、杉木新町の南・東を包むように広がる。地元の伝承によると、永享元年(一四二九)新田与兵衛という武士が越前国境の郷から一族郎党を率いてこの辺りへ移住。その臣堀田市郎兵衛が当地を開き、その居住した所を堀田島という。また東部の鍋島は永正三年(一五〇六)鍋島仁兵衛・五右衛門の二人が開いた所という(出町のあゆみ)。天文五年(一五三六)三月一二日の最勝寺塔頭并末寺目録(最勝寺文書)にみえる「鍋島一所」は当地に比定され、「一天寄進 四名之内同小寄進在之」とある。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]岐阜市太郎丸・太郎丸諏訪・太郎丸野田・太郎丸中島・太郎丸新屋敷・太郎丸樫木・太郎丸北浦・太郎丸北郷・太郎丸向良・太郎丸知之道
石原村の西に位置する。史料上は太良丸ともみえる。長禄二年(一四五八)閏正月二二日の木下家正時末名坪付案(汾陽寺文書)に「山県太郎丸郷内時末名四分之三之坪付事」とみえ、家正は早稲田一段・代九〇〇文など一四貫一〇〇文の田地を汾陽寺(現武儀郡武芸川町)に売却している。この件に関し、同年二月一一日に蔵人・丹後守連署奉書(写、同文書)などが同寺に出されている。
太郎丸村
たろまるむら
[現在地名]香北町太郎丸
下野尻村の西に位置し、西は仮屋野村。下野尻村から続く物部川河岸段丘の幅が急に狭くなり、傾斜を生じる地形で、南の山麓と北の窪地に集落がある。天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳に「自是太良丸名」として、「大野之村」のうちに「太良丸名分」が田畠屋敷の半ばを占めており、大野分も数筆ある。すべて長宗我部氏家臣団の給地とされる。山田氏の時代に太郎丸弥惣次という土豪がいたというが(香北町史)、土居や城跡は不明。総地積五町一反四五代の三分の二は水田で、その七割以上が上田・上々田とされる。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]小国町太郎丸
島新田の北、北東は小国沢村、北は上岩田村。小国東組に属する。近世初めは高田藩領。天和元年(一六八一)以後幕府領、文久二年(一八六二)長岡藩領。正保国絵図に太郎丸村高一五〇石余と太郎丸新田高一一石余がみえる。天和三年の検地帳写(大橋吾平治氏蔵)では田八町九反余・畑屋敷二町七反余・山二町九反余・青苧畑一畝余。屋敷三〇筆のうち退転百姓が九人いる。ほかに田二町三反余・畑屋敷七反余・屋敷六筆の新田、田一町三反余・畑屋敷三反余・屋敷三筆(うち二人は退転百姓)の新々田と田三反余・下々畑三反余の下河原新田がある。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]甲奴町太郎丸、双三郡吉舎町上安田
西流する田総川と、同じく西流して上下川に入る抜湯川とに挟まれた山地を村域とし、北は稲草村(現総領町)、南は抜湯村。東には稲草村の飛地敷尾がある。中世には田総庄に含まれていたと思われ、下地中分の際には地頭領となったといわれる。戦国時代は稲草川平山城城主永井氏の支配下にあったともいうが詳細は不明。
元禄一一年(一六九八)福山藩領より幕府領となり、享保二年(一七一七)以降豊前中津藩領。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村名がみえ、二二五・六三七石。寛政(一七八九―一八〇一)頃の中津藩明細帳(前原篤来氏蔵)によると耕地三六町八反二畝余で高二七六石余、うち田方が一九町五反三畝余で高一八九石余、畠方一六町二反八畝余で高八七石余。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]土佐市太郎丸
江良山の南西、家俊村の東に位置する。「土佐州郡志」は「在本村西南、東西十町余南北三町或四五町」と記す。戸波郷に属し、天正一七年(一五八九)の戸波郷地検帳に村名がみえ地積七町四反余、またかつては大良丸名があったことが知られる。元禄地払帳によると本田高二一五石余で新田はない。本田のうち蔵入地一八三石余、残りは岡田又兵衛ほか一名の知行地と考えられる。寛保郷帳によると戸数三一、人口九九、馬二〇、猟銃六。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]嵐山町太郎丸
志賀村・広野村の東、市野川左岸に位置し、東は水房村(現滑川町)。「風土記稿」によると古くは水房村の内であったが、寛文五年(一六六五)の検地時に分れて同村の枝郷となったという。同書にはこの検地のとき「村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ水帳ニシルシタレハ当村ハ此太郎丸カ開墾セシ地ニテ村名トハナレルニヤ」とみえるが、地形に由来する村名という説もある。松山領に属した(風土記稿)。元禄郷帳では「水房村之枝郷」と冠されて村名が載り、高一〇〇石、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤氏・同大久保氏の相給。
太郎丸村
たろうまるむら
[現在地名]富山市太郎丸
富山城下の南方に位置し、北は中野村。飛騨街道が通る。当村は今泉城主の嫡子が居住していた郭との説がある(肯
泉達録)。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高六三三石余、田方四一町七反余・畑方五反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高六二六石、免四ツ七歩。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 