朝日日本歴史人物事典 「水野忠之」の解説
水野忠之
生年:寛文9(1669)
江戸中期の大名。享保の改革前半期の老中。斎宮,主水,監物,和泉守を称する。三河国(愛知県)岡崎藩主水野忠春の4男で,同族の旗本水野忠近の養子となり,御使番,新番頭を勤める。元禄12(1699)年実家の兄忠盈の死により遺領を継ぎ岡崎藩主となった。同14年の浅野長矩刃傷事件の際には,浅野家の屋敷へ赴き家臣の鎮静に努めた。その後奏者番,若年寄,京都所司代を歴任し,享保2(1717)年,享保の改革の開始直後に老中に任ぜられる。同7年改革の財政再建の最高責任者である勝手掛老中に任命され,年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ,幕府を財政危機の窮地から救った。しかし,その政策は社会に深刻な不況と米価の急落をもたらし,人々の不満,批判は忠之に集中。当時流行した物揃には,「無理で人をこまらせる物,生酔と水野和泉守」(『享保世話』)などというものもあった。同15年病を理由に老中を辞任するが,悪評の責任をとらされての罷免という説もある。
(大石学)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報