( 1 )斎王については、崇神天皇六年に、天皇と同殿の内に天照御神を奉祀するのを憚り、皇女豊鍬入姫命に託して、大和の笠縫邑に祭ったのを起源とするという。ついで垂仁天皇の二五年に皇女倭姫命が豊鍬入姫命に替わり、天照御神の教えによって、伊勢国度会郡五十鈴川のほとりに、斎宮を建てたとする。
( 2 )制度的に整備されたのは天武天皇の頃からと見られ、斎王の居所としての斎宮が多気の地に定まったのもこの頃かと思われる。
古代・中世において代々の天皇の即位ごとに,天照大神の御杖代(みつえしろ)として伊勢に派遣された斎王と,その宮殿官衙施設をいう。〈いつきのみや〉ともいった。その起源は記紀の伝承に始まるが,制度的な確立は7世紀後半の天武朝のころとされる。斎王は未婚の内親王,あるいは女王のなかから占で定められ,平安朝では雅楽寮,宮内省,主殿寮など宮内の便宜的な場所を初斎院として沐浴斎戒に入り,翌年8月には宮外に新造された野宮(ののみや)に移り,潔斎を重ねる。野宮は洛西に置かれたようで,《源氏物語》賢木巻の舞台ともなる。嵯峨野の野々宮神社は,ある時期の野宮の跡という。野宮入りの翌年9月,天皇と永別のたてまえで伊勢に向かう。飛鳥・奈良朝の経路は不明だが,平安朝では長奉送使以下の官人に付き添われ,近江国府,甲賀,垂水,鈴鹿,壱志の各頓宮を経て,伊勢国多気郡の斎宮に入る。この5泊6日の旅程は群行と称し,南北朝期に斎王制が自然消滅するまで,大伯皇女から数えれば64名の斎王が卜定され,49名が伊勢に派遣された。
斎王は伊勢神宮の三節祭である6月と12月の月次祭,9月の神嘗祭の年3回,斎宮から度会郡の離宮院に移り,神宮の祭祀に加わる。神宮への距離的便宜のため,824年(天長1)から839年(承和6)の間,この離宮院に斎宮が移転したこともある。斎宮ではさまざまな祭祀のほか,宮廷とほぼ同様な年中行事がある。《大和物語》では〈竹の都〉と称し,《伊勢物語》狩の使段の舞台になり,1040年(長久1),1083年(永保3),1116年(永久4),1123年(保安4)の歌合は,国文学史上,著名である。斎宮の退下は天皇が没したり譲位することによるのを原則としたが,父母の喪,疾病,過失などにもよった。
斎王には五位官の命婦と女孺,乳母など四十数名の女官がつく。群行の直前に開設される斎宮寮は,当初,斎宮司であったが,701年(大宝1)に寮に準ぜられ,728年(神亀5)には従五位官の頭以下,助,大允,少允,大属,少属各1と使部10の計16名による寮と,従七位官の中臣以下の主神司をはじめ,舎人,蔵部,膳部,炊部,酒部,水部,采部,殿部,薬部,掃部の計11司91名,寮司あわせて107名の定員が定められ,平安朝では門部,馬部の2司が加えられた。斎宮の財政運営は《延喜式》によれば正税をはじめ東海・東山両道諸国から貢納される調庸雑物に依拠し,律令財政機構そのものであった。
斎宮は,内,中,外の3院に区分され,内院は斎王の居所で,神殿,寝殿,出居殿,御汗殿,御匣殿などと遣水,池などをそなえた寝殿造形式で,中院と外院には寮頭館,官舎,諸司雑舎,寮庫などがあった。その造営と修理は,奈良朝では造斎宮長官が派遣され,正税によっていたが,平安朝以降では神祇官官僚大中臣氏の成功,重任,栄爵によって造進された。平安朝中ごろには殿舎の荒廃がみられ,末期には築垣もなくなる。1272年(文永9)の愷子内親王の退下以後,斎王の卜定はあったが,伊勢への着任はなかった。
執筆者:小玉 道明
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伊勢(いせ)の神宮に奉仕した皇女また女王のこと。正しくは伊勢大神宮斎王(いつきのみこ)という。斎宮は斎王の居所からつけられた名、内親王の場合には斎内親王(いつきのないしんのう)とも称した。その起源は崇神(すじん)天皇の御代、それまで天照大神(あまてらすおおみかみ)を天皇の宮殿内に、いわゆる同床共殿で祭祀(さいし)してきたことを畏(おそ)れ多いこととし、まず倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)に神殿を建て奉斎したとき、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に奉仕させられたことに始まり、以後、推古(すいこ)天皇より弘文(こうぶん)天皇の間はとだえたが、天武(てんむ)天皇のとき復興してその制度の大要を定め、後醍醐(ごだいご)天皇のときまで続けられた。その制度・任務などについては『延喜式(えんぎしき)』により詳しく知ることができるが、それによると、まず天皇は即位ののち、未婚の内親王より卜定(ぼくじょう)、もし内親王がないときは、世次により女王より卜定し、勅使にそのことを告げさせたあと、大祓(おおはらえ)をし、宮城内の便所(びんしょ)(雅楽寮や宮内省など)を卜(うらな)って初斎院(しょさいいん)として潔斎生活に入り、翌年8月河に臨んで禊祓(みそぎはらい)ののち、宮城外の野宮(ののみや)での1年間潔斎生活のあと、天皇に別れを告げ伊勢斎宮に入る。これを群行(ぐんこう)というが、途中、山城(やましろ)(京都府)・近江(おうみ)(滋賀県)の国境、近江の勢多(せた)川・甲賀川、伊勢の鈴鹿(すずか)川・下樋小川・多気(たけ)川において御禊(ぎょけい)が行われた。
斎宮御所では規定に従って日夜厳重な潔斎生活をなし、年に三度、いわゆる三節祭(6、12月の月次祭(つきなみさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい))に奉仕することとなっていた。その三節祭には斎宮御所を出て、途中離宮院に入り御禊ののち、宮川で修祓(しゅばつ)、まず豊受(とようけ)大神宮の祭儀に奉仕、ついで翌日皇大神宮の祭儀に奉仕することとされていた。この斎王の退下は、天皇譲位または崩御によるのが原則であるが、ときに母君の喪または病気によることもあった。また在任中伊勢で薨去(こうきょ)された場合もある。斎宮御所は13司が置かれ、官人以下約500人が奉仕していた。後醍醐天皇のとき、南北朝の争乱で群行もできず廃止されたが、のち幕末1863年(文久3)津藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)らがその復興を唱えたものの実現しなかった。
[鎌田純一]
三重県中東部、多気(たき)郡明和町(めいわちょう)の一地区。旧斎宮村。古代に伊勢(いせ)神宮に奉仕する斎王(斎宮)の官衙(かんが)が置かれた地。正確な所在は知られなかったが、第二次世界大戦後、住宅地開発のおりに遺構や遺物が発掘され、1979年(昭和54)東西2キロメートル、南北700メートルの範囲が国の史跡に指定された。史跡の出土品や復原模型などを展示した斎宮歴史博物館や、いつきのみや歴史体験館が設置されている。
[伊藤達雄]
字通「斎」の項目を見る。
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「いつきのみや」とも。古代~中世に天照大神の御杖代(みつえしろ)として伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王・女王。本来の職名は斎王(さいおう)で,斎宮はその居所をさしたが,転じて斎王自身をさす語ともなった。伝承上の起源は垂仁朝の倭姫命(やまとひめのみこと)だが,制度が整備されたのは天武朝の大伯(おおく)皇女からで,天皇の代替りや父母の喪によって交替することとされた。卜定(ぼくじょう)されると宮中の初斎院(しょさいいん),つづいて嵯峨野の野宮(ののみや)で約2年間潔斎し,その後監送使や斎宮寮官人・女官らを従えて伊勢に群行した。平常は多気の斎王宮(斎宮)にいて,斎宮忌詞(いみことば)を用いるなど仏事や不浄をさけて潔斎に努め,伊勢神宮の三節祭(6月・12月の月次(つきなみ)祭と9月の神嘗(かんなめ)祭)には神宮に赴いて太玉串(ふとたまぐし)を奉じた。後醍醐天皇の祥子内親王で中絶した。
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…野宮入りの翌年9月,天皇と永別のたてまえで伊勢に向かう。飛鳥・奈良朝の経路は不明だが,平安朝では長奉送使以下の官人に付き添われ,近江国府,甲賀,垂水,鈴鹿,壱志の各頓宮を経て,伊勢国多気郡の斎宮に入る。この5泊6日の旅程は群行と称し,南北朝期に斎王制が自然消滅するまで,大伯皇女から数えれば64名の斎王が卜定され,49名が伊勢に派遣された。…
…鈴振り神子,湯立神子,神楽神子とも称される。これにもローカルタームがあって,宮中の神事に奉仕した御巫(みかんこ),伊勢神宮の斎宮(いつきのみや),賀茂神社の斎院またはアレオトメ,熱田神宮の惣の市(そうのいち),鹿島神宮の物忌(ものいみ),厳島神社の内侍(ないし),美保神社の市(いち)などが著名である。けれども現在では,本来の神がかり現象を示すものはほとんどみられない。…
…ヒメは景行朝まで伊勢神宮にあり,ヤマトタケルの西征東征にあたり,あれこれと助力する。 上述の神宮起源の話は斎宮の起源譚でもある。神宮成立とともに天皇家の祖神アマテラスに仕えるために選ばれた未婚の皇女ヤマトヒメは,神話的な初代斎宮にほかならない。…
…また南北朝時代に,南朝方の後醍醐天皇以下4代の天皇の居処である吉野,天野,賀名生(あのう)なども,一般に行宮といっているが,これは南朝方が,名分上,地方行幸という形式をとったことによる。なお天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する斎宮が,京より伊勢国に下向する間の宿泊施設をも〈頓宮〉という。これは斎宮が神宮奉斎の点で,天皇の代理という性格を持っていたからであろう。…
…《日本書紀》によると,それまで天皇と共殿共床の関係にあった天照大神(あまてらすおおかみ)を豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命に託して宮廷の外に移し,いわゆる神人分離の基をつくった。トヨスキイリヒメは《古事記》に〈伊勢大神を拝(いつ)き祭る〉と記され,初代の斎宮(さいぐう)であるという。このことは,天照大神の霊威が狭い宮廷の枠を超えて国家的な普遍性をもったことを意味し,王権の原始的形態に特徴的にみられる祭政の癒着が廃されて,天皇の政治力に宗教からの相対的な独立性と展開力とをもたらしたのである。…
※「斎宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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