水野忠恒(読み)みずの・ただつね

朝日日本歴史人物事典 「水野忠恒」の解説

水野忠恒

没年:元文4.6.28(1739.8.2)
生年元禄14(1701)
江戸中期の信濃国松本藩(松本市)藩主。江戸生まれ。通称は幼名為千代,のち主計,修理。隼人正に任ぜられる。父は忠周,母は前田利治の娘。享保8(1723)年兄忠幹の養子となり,同年遺領7万石を継ぐ。先代が藩の事業として編纂をすすめていた『信府統記』(信濃国の地誌)を同9年に完成させた。10年7月28日江戸城にて将軍徳川吉宗に拝謁後,退出の際,にわかに発狂し長府毛利家の世子毛利師就に対し刃傷事件を起こした。忠恒は川越藩主秋元喬房に預けられ,領地は没収された。8月27日許され,叔父忠穀の許に蟄居させられた。酒色に溺れ,弓矢鉄砲を弄び,政務を顧みなかったという。

(小柴良介)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水野忠恒」の解説

水野忠恒(1) みずの-ただつね

1701-1739 江戸時代中期の大名
元禄(げんろく)14年8月6日生まれ。水野忠周(ただちか)の次男。享保(きょうほう)8年(1723)信濃(しなの)(長野県)松本藩主水野家6代となる。10年将軍徳川吉宗に成婚の報告のため登城,乱心して松の廊下長門(ながと)府中藩の世子毛利師就(もろなり)にきりつけた。改易(かいえき),蟄居(ちっきょ)となり,家名は叔父水野忠穀(ただよし)がついだ。元文4年6月28日死去。39歳。

水野忠恒(2) みずの-ただつね

1951- 昭和後期-平成時代の法学者。
昭和26年6月25日生まれ。東大助手をへて,昭和53年東北大助教授,平成4年教授。6年早大教授。9年一橋大教授。租税法学会理事長,政府税制調査会特別委員,総務省ふるさと納税研究会委員などをつとめる。22年紫綬褒章。東京都出身。東大卒。著作に「アメリカ法人税の法的構造」「消費税制度理論」「租税法」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「水野忠恒」の解説

水野忠恒 (みずのただつね)

生年月日:1701年8月6日
江戸時代中期の大名
1739年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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