浅野長矩(読み)アサノナガノリ

デジタル大辞泉 「浅野長矩」の意味・読み・例文・類語

あさの‐ながのり【浅野長矩】

[1667~1701]江戸中期播磨はりま赤穂あこう藩主内匠頭たくみのかみ。元禄14年(1701)3月14日、勅使接待役となったが、吉良義央きらよしなかを江戸城中で傷つけたため即日切腹、領地は没収された。

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精選版 日本国語大辞典 「浅野長矩」の意味・読み・例文・類語

あさの‐ながのり【浅野長矩】

  1. 江戸中期の大名。播磨赤穂藩主。内匠頭(たくみのかみ)。元祿一四年勅使接待役となったが、江戸城内で吉良義央(きらよしなか)を傷つけ、即日、領地没収、切腹を命じられた。寛文五~元祿一四年(一六六五‐一七〇一)。→赤穂義士

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改訂新版 世界大百科事典 「浅野長矩」の意味・わかりやすい解説

浅野長矩 (あさのながのり)
生没年:1667-1701(寛文7-元禄14)

播磨赤穂城主。5万3500石。広島浅野家の分家。1645年祖父長直が常陸笠間から転じ,75年(延宝3)に父長友の跡を継いだ。1701年3月14日,勅使の御馳走役であった長矩は,勅使らが到着する直前,江戸城本丸の松之廊下高家肝煎吉良義央(きらよしなか)に斬りつけ負傷させたために捕らえられ,即日,切腹・改易の処分をうけた。その遺臣たちが翌年12月義央を殺害した事件は有名である。
執筆者: 赤穂浪士討入りはその後戯曲等に仕組まれ,浅野長矩は《仮名手本忠臣蔵》では伯州の城主,塩冶(谷)(えんや)判官高貞(定)として登場する。芝居ではおっとりした役柄で,そこが高師直(吉良義央)にいじめられるときや,切腹の場面などで観客の涙をさそうことになる。歌舞伎をはじめとする舞台では脚本も演出も,いい殿様としての塩冶判官像を培ってきたのである。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅野長矩」の意味・わかりやすい解説

浅野長矩
あさのながのり
(1667―1701)

播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも)の跡を継いだ。1680年、従(じゅ)五位下内匠頭(たくみのかみ)。1701年(元禄14)幕府から勅使の御馳走(ごちそう)役を命ぜられたが、その指南(しなん)役である高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしなか)との間柄が悪化した様子で、3月14日幕府の年賀の答礼として京都から派遣された勅使・院使が到着する直前に、江戸城本丸の松之廊下で「私の遺恨」から吉良に斬(き)りつけたが、軽傷を与えただけで捕らえられ、ただちに切腹させられ領地は没収された。墓は江戸・高輪(たかなわ)の泉岳寺(せんがくじ)。その遺臣らが失われた主家の名誉を回復せんとして、翌1702年12月吉良を殺害した事件は有名である。

田原嗣郎]


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朝日日本歴史人物事典 「浅野長矩」の解説

浅野長矩

没年:元禄14.3.14(1701.4.21)
生年:寛文7(1667)
江戸時代中期の大名,播磨国(兵庫県)赤穂藩藩主として5万余石を領す。安芸国広島藩浅野家の支流。延宝3(1675)年就封,内匠頭を称す。浅野家は祖父長直の赤穂藩入封以来,沿海部に新開の入浜塩田を次々に造成,塩田は127町歩(126ha)におよび,受封高以外に製塩収入が藩財政を潤していた。元禄14(1701)年勅使の江戸下向に際して,幕府に接待役を命じられる。その礼式指南に当たる高家吉良義央はひそかに贈賄を求めたようであるが,直情な長矩は意に介するところがなかったので,折に触れては義央に辱めを受けた。3月14日,勅使が江戸を退去するための登城に際し,江戸城中白木書院で,義央に面罵された長矩は,ついに抑えきれず義央の背後から切り付けたが,抱き止められて思いを遂げられず,即日切腹を命じられた。さらにこの事件により領地は没収。その遺臣大石良雄らが翌年12月14日吉良邸に討ち入り復讐をとげた事件は,忠臣蔵として世に喧伝された。

(後藤陽一)

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百科事典マイペディア 「浅野長矩」の意味・わかりやすい解説

浅野長矩【あさのながのり】

播磨(はりま)国赤穂(あこう)藩主。5万石余。内匠頭(たくみのかみ)。安芸(あき)広島浅野家の分家。1701年勅使の江戸下向の際,接待役を命ぜられた。この儀礼の指導を高家肝煎(きもいり)の吉良義央(よしなか)に仰いだとき侮辱され,江戸城中で義央に切りつけた。将軍徳川綱吉は直ちに改易の処分をし,長矩に即日切腹を命じたが,義央は御役御免のみであった。この処分を不服とする遺臣たちが翌年義央を殺害したことは著名。→赤穂浪士
→関連項目大石良雄堀部安兵衛

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浅野長矩」の解説

浅野長矩 あさの-ながのり

1667-1701 江戸時代前期の大名。
寛文7年8月11日生まれ。浅野長友の長男。妻は瑶泉院(ようぜいいん)。延宝3年播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩主浅野家3代となる。元禄(げんろく)14年勅使の接待役となり,その典礼の指南役吉良義央(きら-よしなか)に同年3月14日江戸城内できりつけ,即日切腹,領地は没収された。35歳。墓所は泉岳寺(東京都港区高輪(たかなわ))。官職名は内匠頭(たくみのかみ)。翌年12月14日家老の大石良雄以下遺臣47人が吉良邸に討ち入り長矩の仇(あだ)を討った。
【格言など】風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん(辞世)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅野長矩」の意味・わかりやすい解説

浅野長矩
あさのながのり

[生]寛文7(1667).赤穂
[没]元禄14(1701).3.14. 江戸
江戸時代中期の播州赤穂藩5万 3000石の藩主。内匠頭。元禄 14 (1701) 年3月 11日勅使供応を幕府より仰せつけられ,吉良義央 (よしなか,通称上野介) に接待の教示を受けたが,贈り物の不十分であったことから義央に不親切にされ,それを遺恨に3月 14日義央に切りつけ,同日長矩は切腹。藩は取りつぶされ,赤穂事件の原因となった。 (→赤穂義士 )

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「浅野長矩」の解説

浅野長矩
あさのながのり

1667~1701.3.14

江戸前期の大名。播磨国赤穂藩主。内匠頭(たくみのかみ)。1675年(延宝3)父長友の遺領5万3000石余を継ぐ。93年(元禄6)水谷勝美(みずのやかつよし)改易の際,備中国松山城を守衛。1701年,年頭の勅使の饗応役を命じられたが,指導役の吉良義央(よしなか)と対立し,3月14日江戸城中松之廊下で義央に斬りつけ,即日切腹に処される。浅野家は改易,これが赤穂事件に発展した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「浅野長矩」の解説

浅野長矩
あさのながのり

1667〜1701
江戸中期の播磨(兵庫県)赤穂 (あこう) 藩主
内匠頭 (たくみのかみ) 。1701年3月,勅使下向にあたりその接待役を命じられたが,指導をうけた高家吉良義央 (きらよしなか) の侮辱にたえかねて江戸城中で刃傷に及び,即日切腹,領地を没収された。翌年12月14日赤穂四十七士の仇討がなされた。

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367日誕生日大事典 「浅野長矩」の解説

浅野長矩 (あさのながのり)

生年月日:1667年8月11日
江戸時代前期;中期の大名
1701年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の浅野長矩の言及

【赤穂浪士】より

…この日は幕府の年賀に対する答礼のため京都から遣わされた勅使・院使に対して,将軍徳川綱吉の挨拶が白書院で行われるはずであったが,事件は勅使らの到着直前に起こった。浅野長矩は勅使の御馳走役であったが職務を放擲(ほうてき)して事を起こしたのである。これらの条件が浅野の罪を重くし,彼は即日切腹の処分をうけ,浅野家は取りつぶされた。…

【喧嘩両成敗法】より

…喧嘩両成敗法の本来のかたちは,喧嘩をした者は双方とも,〈理非〉つまり喧嘩の原因を問うことなく,同等の処罰をうける(相手の被害と同じ害を罰としてうける)というもので,この場合の喧嘩とは物理的闘争のみを指す。したがって喧嘩を仕掛けられても応戦しない者は処罰されない。たとえばAがBを怒らす原因(侮辱,横領,債務不履行等々)を作り,Bが実力行使に及んだ場合(B:理,A:非)でも,Aが応戦しないかぎり,Bのみが処罰される。…

【忠臣蔵映画】より

…かつて映画界には〈ヒット作の企画に困れば忠臣蔵〉という言い方があったほど,忠臣蔵映画は,つくれば必ず大ヒットするドル箱とされてきた。これは明らかに〈忠臣蔵〉が国民的人気をもつゆえであるが,登場人物が多彩で,しかも人物それぞれの見せ場のあることから,各映画会社のスターの〈顔見世番組〉,いわゆるオールスター作品としてふさわしいとされたことも見逃せない。そして,オールスター大作としての忠臣蔵映画を製作できるかどうかは,映画会社の盛衰を示すバロメーターともみなされ,各社は正月と盆の稼ぎ時のほかに,さまざまな記念作品として忠臣蔵映画をつくった。…

【もてなし】より

…客人に飲食や宿舎を与えてもてなす風習はほとんどあらゆる社会にみられるが,国家の権威が人心にいまだ十分浸透していない段階では,こうしたもてなしは,近代社会における場合とは比較にならぬほど大きな意義をもっている。 まず,そのような社会では,訪れる客のもてなしは個人の自由裁量にゆだねられるものではなく,一般に家や親族集団を単位として行われる社会的義務とみなされている。ホメロスの《イーリアス》の中に,敵対する2人の戦士が,互いの先祖がもてなしによって結ばれた関係にあることを知ると,ただちに戦いをやめるという有名なエピソードがあるが(詳しくは後述),それなどはホメロスの時代のギリシアにおいて,もてなしの紐帯(ちゆうたい)が〈相続〉されるものであったことを物語るものであろう。…

※「浅野長矩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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