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「坂田藤十郎」の意味・読み・例文・類語
さかた‐とうじゅうろう〔‐トウジフラウ〕【坂田藤十郎】
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さかた‐とうじゅうろう【坂田藤十郎】
- 歌舞伎俳優。初世。元祿期(一六八八‐一七〇四)の上方歌舞伎を代表する名優。京の座元坂田市左衛門(一説に藤右衛門)の子。延宝六年(一六七八)に演じた「夕霧名残の正月」の伊左衛門の役が大当たりで、地位と名声を確立した。写実的な芸風で、やつし事・濡れ事・くぜつ事にすぐれ、上方和事芸の基礎を築いた。正保四~宝永六年(一六四七‐一七〇九)
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坂田藤十郎
さかたとうじゅうろう
歌舞伎(かぶき)俳優。現世まで4世を数える。
(1647―1709)元禄(げんろく)時代(1688~1704)の上方歌舞伎(かみがたかぶき)を代表する名優。京都の座本坂田市左衛門(一説に藤右衛門)の子。1676年(延宝4)ごろから記録に現れ、早くも将来が楽しみな役者と期待されている。1678年『夕霧名残(ゆうぎりなごり)の正月』の伊左衛門を演じて大好評を得たため、この年は四度もこの役を繰り返し演じ、後年の芸の基礎をつくった。元禄に入ってからしだいに芸も人気も上昇し、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)と提携して『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』『傾城阿波(けいせいあわ)の鳴門(なると)』『水木辰之助餞振舞(みずきたつのすけたちぶるまい)』『百夜小町(ももよこまち)』『大名曽我(だいみょうそが)』などに次々と出演、傾城事(けいせいごと)・やつし事によって確固たる地位を築いた。1695年(元禄8)11月から京都の都万太夫座(みやこまんだゆうざ)の座本も兼ねた。最頂期の元禄10年代には、『傾城仏の原』『傾城弘誓(ぐぜい)の船』『傾城壬生大念仏(みぶだいねんぶつ)』などの名作に出演。弁説に優れ、とくにやつし・濡(ぬ)れ事・くどきの芸に卓越した技芸を見せ、「役者道の開山」「希代の名人」などともてはやされた。菊池寛作『藤十郎の恋』によって現代人にも親しみのある名優である。
[服部幸雄 2018年5月21日]
(1669―1724)初世の弟分。通称「伏見藤十郎(ふしみとうじゅうろう)」。
[服部幸雄 2018年5月21日]
(1701―1774)江戸長唄(ながうた)の唄方で坂田派の祖、坂田兵四郎(ひょうしろう)(初世藤十郎の甥(おい))の門人が、1739年(元文4)江戸で襲名したが、大成しなかった。
[服部幸雄 2018年5月21日]
(1931―2020)本名林宏太郎(こうたろう)。屋号山城屋。2世中村鴈治郎(がんじろう)の長男。2世中村扇雀(せんじゃく)を経て、1990年(平成2)に3世鴈治郎を襲名。女方(おんながた)としてスタートしたが、祖父である初世中村鴈治郎以来の立役としての上方和事芸を継承するとともに、研究劇団近松座を主宰するなど情熱的な活躍をみせた。扇雀時代には坂東鶴之助(後の5世中村富十郎(とみじゅうろう))とともに、武智歌舞伎(たけちかぶき)に参加して活躍し、「扇鶴時代」とよばれるほどの人気を集めた。1994年重要無形文化財保持者、同年芸術院会員となる。2003年(平成15)文化功労者。2009年文化勲章受章。2005年先代の没後231年ぶりに4世藤十郎を襲名した。長男が4世中村鴈治郎(1959― )、次男が3世中村扇雀(1960― )である。
[服部幸雄 2018年5月21日]
『亀岡典子聞書『夢 平成の藤十郎誕生』(2005・淡交社)』
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坂田藤十郎 (さかたとうじゅうろう)
歌舞伎役者。(1)初世(1647-1709・正保4-宝永6) 1676年(延宝4)には立役で京の都万太夫座四天王の一人とされ,2年後大坂で演じた《夕霧名残の正月》の伊左衛門はその名声を高めた。以来夕霧狂言の伊左衛門は生涯の当り芸として繰り返された。主として京都で活躍し,狂言も作ったが,93年(元禄6)ころから近松門左衛門の作を多く演じ,以後の代表的な当り芸は99年《傾城仏の原》の梅永文蔵,1702年《傾城壬生大念仏(けいせいみぶだいねんぶつ)》の高遠民弥など。傾城買狂言を形成するやつし事,濡れ事,くぜつ事などを最も得意とし,せりふ,特に長ぜりふの仕方咄(しかたばなし)に巧みであった。武道事,所作事は不得手であったが,元禄期上方歌舞伎の和事を作り上げて後世に伝えた功は大きい。位付は95年以来立役上上吉。(2)2世 前名坂田長左衛門。1711年(正徳1)襲名。通称伏見藤十郎。立役。(3)3世 前名坂田定四郎。1739年(元文4)襲名。立役のち実悪。(4)4世(1931(昭和6)- ) 前名中村鴈治郎。1990年3代目鴈治郎を襲名。2005年4代目を襲名。
→和事
執筆者:松崎 仁
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坂田藤十郎
没年:宝永6.11.1(1709.12.1)
生年:正保4(1647)
元禄期,上方の歌舞伎役者。家は越後(新潟県)の出。京の座本坂田市左衛門の子。近年発見の『金子吉左衛門日記(元禄11年日記)』では長政と呼ばれている。青年期については不明だが,花車形(老女形)の名優杉九兵衛,能の小鼓の名人骨屋庄右衛門らに教えを受けた。30歳の延宝4(1676)年役者評判記に名前がみえるのが早い資料。同年11月の「滝口」の演技で,末たのもしき役者と絶賛された。同6年,大坂新町廓の名妓夕霧が没したが,藤十郎はその事蹟を仕組んだ「夕霧名残の正月」で藤屋伊左衛門に扮し,以後この役をくり返し演じて生涯の当たり役とした。元禄6(1693)年近松門左衛門作「仏母摩耶山開帳」のころより近松を厚遇し,以後提携が続いて元禄上方歌舞伎の隆盛を導いた。元禄9年から5年間都万太夫座の座本。12年の「けいせい仏の原」の梅永文蔵,15年の「けいせい壬生大念仏」の高遠民弥にやつし芸(貴人が身をやつす,あるいは落ちぶれる役柄)の完成した演技を示し,京都劇界の頂点に立った。宝永期(1704~11)に入ると病がちで芸がおとろえ,近松も大坂に去った。宝永4(1707)年舞台で大和山甚左衛門に紙子(「やつし」の象徴的な衣裳)をゆずって隠退,2年後に亡くなった。舞踊や武道事は苦手としたが,口跡にすぐれ,やつし事,濡れ事に長じた。その徹底した写実主義の演技観は金子吉左衛門(一高)が記録した芸談集『耳塵集』(『役者論語』1776)にみられる。藤十郎には2代目,3代目があったが,初代にはおよばなかった。<参考文献>「元禄11年日記」(鳥越文蔵編『歌舞伎の狂言』),守随憲治『歌舞伎序説』,演劇史学会編『演劇史研究Ⅰ/元禄劇篇』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
坂田藤十郎(4世)
さかたとうじゅうろう[よんせい]
[生]1931.12.31. 京都,京都
[没]2020.11.12. 東京
歌舞伎俳優。本名林宏太郎。屋号成駒屋。2世中村鴈治郎の長男。1941年 2世中村扇雀を名のり初舞台を踏む。1949年演劇評論家武智鉄二率いる関西実験劇場(武智歌舞伎)に参加,厳しい修業を積んで 4世坂東鶴之助(→中村富十郎〈5世〉)と組み,雀鶴コンビとして人気を得る。1953年には近松門左衛門の『曾根崎心中』で,遊女お初を演じて扇雀ブームを起こした。女方(女形)として活躍していたが,1975年頃から和事を中心に立役にまで芸域を広げた。上方歌舞伎の復興に尽力し,1981年近松座を結成,近松全作品の上演を目指した。1990年 3世中村鴈治郎を襲名。2005年には上方歌舞伎の大名跡である坂田藤十郎を 231年ぶりに襲名した。あたり役のお初は 2015年まで通算 1400回以上務めた。1986年日本芸術院賞受賞。1994年に日本芸術院会員に選ばれたほか,重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。2003年文化功労者に選定。2008年高松宮殿下記念世界文化賞受賞。2009年文化勲章受章。妻は元女優で元参議院議長の扇千景。
坂田藤十郎(1世)
さかたとうじゅうろう[いっせい]
[生]正保4(1647).京都
[没]宝永6(1709).京都
歌舞伎俳優。元禄期(1688~1704)の上方を代表する名優。京都の座本(座元)坂田市右衛門の子として生まれる。延宝6(1678)年,傾城買い狂言『夕霧名残の正月』の「やつし」の芸で名を上げ,写実的でやわらかみのある和事の演技を大成した。容姿弁舌ともに優れ,ことに長ぜりふを得意とした。元禄6(1693)年京都の都万太夫座で近松門左衛門の『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』の総領かもん(掃部)を演じた頃から近松と提携したと伝えられる。元禄8(1695)年から都万太夫座の座本も兼ねた。夕霧狂言の伊左衛門のほか,『けいせい仏の原』の文蔵などがあたり役。芸談集に『耳塵集(にじんしゅう)』『続耳塵集』『賢外集』がある。なお,坂田藤十郎の名跡は 3世まで継承されたのち長らくとだえていたが,2005年 3世中村鴈治郎が 3世坂田藤十郎没後 231年ぶりに襲名した(→坂田藤十郎〈4世〉)。菊池寛は 1世坂田藤十郎をモデルに小説『藤十郎の恋』(1919,1921戯曲化)を書いた。
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坂田藤十郎【さかたとうじゅうろう】
歌舞伎俳優。現在4世。初世〔1647-1709〕が有名で,元禄期の上方劇壇を代表する名優。近松門左衛門と提携して,歌舞伎を舞踊中心から会話中心の写実劇に発展させた。荒事(あらごと)を始めた江戸の初世市川團十郎に対し,和事(わごと)の創始者として知られる。3世〔1701-1774〕の没後200年余り名跡が途絶えていたが,3世中村鴈治郎〔1931-〕が2005年4世を襲名。
→関連項目元禄文化|役者論語
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
坂田藤十郎
歌舞伎俳優。1931年12月31日、京都府京都市生まれ。41年、2代目中村扇雀(せんじゃく)の名で初舞台を踏む。53年に、父の2代目中村鴈治郎と共演した近松門左衛門作「曽根崎心中」で演じたお初役で人気となり、「扇雀ブーム」を巻き起こした。お初は生涯の当たり役となり、以後1400回以上演じた。また、元禄時代に初代坂田藤十郎が確立した、上方歌舞伎の特徴といえるやわらかで優美な演技を意味する「和事(わごと)」にこだわり、立役(たちやく)としても活躍。高貴な身分ながらも、道ならぬ恋などに身をやつしている男を、品のある色気とともに演じた。81年に「近松座」を結成。上方の代表的な作家である近松作品の全作上演と、当時衰退していた上方歌舞伎の復活に尽力した。2005年に4代目坂田藤十郎を襲名。231年間継ぎ手がいなかった大名跡を蘇らせた。1980年に芸術選奨文部大臣賞を受け、94年に人間国宝に認定され、2009年には文化勲章を受章した。20年11月12日に88歳で死去。
出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報
坂田藤十郎(4代) さかた-とうじゅうろう
1931- 昭和-平成時代の歌舞伎役者。
昭和6年12月31日生まれ。2代中村鴈治郎の長男。扇千景の夫。中村玉緒の兄。昭和16年大阪角座で2代中村扇雀を名のり初舞台。28年新橋演舞場で父と共演した「曾根崎心中」のお初で注目される。61年芸術院賞。平成2年歌舞伎座で3代中村鴈治郎を襲名。6年人間国宝,芸術院会員。15年文化功労者。17年上方歌舞伎の大名跡4代坂田藤十郎を襲名。20年「摂州合邦辻」などの演技で朝日舞台芸術賞。21年文化勲章。京都出身。東山中学卒。本名は林宏太郎。屋号は成駒屋(なりこまや)。
坂田藤十郎(初代) さかた-とうじゅうろう
1647-1709 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。
正保(しょうほ)4年生まれ。父は京都の座本坂田市右(左)衛門。延宝6年「夕霧名残(なごり)の正月」の藤屋伊左衛門が当たり役となる。元禄(げんろく)6年ごろから近松門左衛門とくんで上方歌舞伎の和事を完成させた。芸風は写実的でせりふ回しにすぐれていた。宝永6年11月1日死去。63歳。通称は伊右(左)衛門。俳名は冬貞,冬藤。
坂田藤十郎(3代) さかた-とうじゅうろう
1701-1774 江戸時代中期の歌舞伎役者。
元禄(げんろく)14年生まれ。2代三条勘太郎から坂田兵四郎(ひょうしろう)の門にうつり,元文4年江戸河原崎座で3代藤十郎を襲名。実事を得意とした。安永3年8月24日(一説に16日)死去。74歳。初名は三条半弥。前名は坂田定四郎。俳名は射連,車漣。屋号は柊屋(ひいらぎや)。
坂田藤十郎(2代) さかた-とうじゅうろう
1669-1724 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。
寛文9年生まれ。初代藤十郎の弟分で,宝永8年京都布袋屋(ほていや)座で2代を襲名。和事を得意とした。享保(きょうほう)9年9月27日死去。56歳。山城(京都府)出身。前名は坂田長左衛門。通称は伏見藤十郎。俳名は車漣。屋号は桑名屋。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
坂田藤十郎
さかたとうじゅうろう
1647~1709.11.1
歌舞伎俳優。元禄期の京坂を代表する名優。俳名冬貞。写実芸にすぐれ,上方の和事芸を確立。1678年(延宝6)に演じた「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門で評判をとり,生涯の当り芸とした。近松門左衛門と提携した93年(元禄6)頃から約10年間が最盛期。劇作も手がけ,座本も勤めた。以後3世まで続き,2世は初世の弟分でその芸を模倣。通称伏見藤十郎。3世は元文~安永期の人。実事(じつごと)から実悪(じつあく)に進んだ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
坂田藤十郎
さかたとうじゅうろう
(初代)1647〜1709
江戸前期の歌舞伎俳優
京都芝居座元の子。和事 (わごと) を得意とし,近松門左衛門の脚本を多く演じた。元禄期(1688〜1704)の上方を代表する名優で,江戸の初代市川団十郎の荒事 (あらごと) に対し上方歌舞伎の基礎を築いた。言行録に『耳塵 (じじん) 集』『賢外集』など。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
坂田 藤十郎(4代目) (さかた とうじゅうろう)
生年月日:1931年12月31日
昭和時代;平成時代の歌舞伎俳優
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の坂田藤十郎の言及
【歌舞伎】より
…江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる[荒事](あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ[和事](わごと)の演技様式が確立する。この時代の狂言のおおよその内容は,こんにちに残された[狂言本]と役者評判記によって知ることが可能である。…
【近松門左衛門】より
…だが近松は貞享(1684‐88)のころすでに歌舞伎作者でもあった。ただし歌舞伎作者として精力的に活躍しだすのは,[坂田藤十郎]が京都の都万太夫座の座本になり,その座付作者に迎えられた95年(元禄8)ごろからで,《[傾城(けいせい)仏の原]》(1699)や《[傾城壬生大念仏]》(1702)が書かれ,それを演じた藤十郎は〈古今濡事の開山,けいせい買の元祖〉と評された。そのころ,人形浄瑠璃よりも歌舞伎が流行していた。…
【藤十郎の恋】より
…同年10月大森痴雪脚色により大阪浪花座初演。坂田藤十郎を初世中村鴈治郎,宗清女房お梶を4世中村福助(のちの3世梅玉)など。のちに作者自身脚色して翌20年戯曲集《藤十郎の恋》に収録。…
※「坂田藤十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」