氷室村(読み)ひむろむら

日本歴史地名大系 「氷室村」の解説

氷室村
ひむろむら

[現在地名]高槻市氷室町一―六丁目

岡本(おかもと)村の南、女瀬(によぜ)川沿岸に位置し、南は西国街道を隔てて宮田(みやだ)村。「日本書紀」仁徳天皇六二年条によれば、額田大中彦皇子が「闘鶏(つけ)」に猟をしたとき氷室をみつけ、天皇にその氷を献上した。「是より以後、季冬に当る毎に、必ず氷を蔵む。春分に至りて、始めて氷を散る」という。一説にこの氷室は大和国山辺郡都介(つげ)郷(和名抄)に比定されるが、当村の北山を闘鶏(つげ)山と称し、北山の当村産土神を闘鶏野(つげの)神社と称するところから、当地に比定する説が有力である。中世後期には庄園化が進んだと思われるが、わずかに「蔭涼軒日録」長禄三年(一四五九)一〇月一三日条に「摂州大蔵寺領不知行、同国氷室庄買得名因(田カ)事、守護被官、大田三郎左衛門尉、自当年四月押領」とあるのみ。


氷室村
ひむろむら

[現在地名]斐川町神氷(かんぴ)

出雲平野南方の仏経(ぶつきよう)山北西麓にあり、西は出西(しゆつさい)村、北は神守(かんもり)村。北西にわずかな平坦地があり、ほとんど丘陵となっている。仏経山中央宮谷(みやだに)に洞穴の氷室がつくられていたといわれる。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は木(き)ノ下(した)・坪内(つぼうち)輪、島田(しまだ)輪、加名出(かなで)輪。正保四年(一六四七)の出東郡氷室村御検地帳では田方三〇町余・分米四一二石余、畑方六町四反余・分米三七石余、屋敷数二〇(うち役屋敷九)とある。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高五八四石余、寛文四年(一六六四)の本田高五五四石余・新田高一二石余。


氷室村
ひむろむら

[現在地名]宇都宮市氷室町・清原工業団地(きよはらこうぎようだんち)

北は東水沼(ひがしみずぬま)村(現芳賀郡芳賀町)および野高谷(のごや)村、東は西水沼村(現芳賀町)と接する台地上にあり、南北に長い。芳賀(はが)郡に属する。山林と沢地帯が大きく南北に蛇行し、田地も多い。近世初期は宇都宮藩領。慶安郷帳に田方三八五石余・畑方一四二石余。元禄郷帳でも同領。その後幕府領となったと思われ、寛政五年(一七九三)には同領(「用水御普請出来形帳」岡田純一文書)。


氷室村
ひむろむら

[現在地名]梓川村大字倭(やまと) 氷室

梓川左岸段丘上に立地。初見は文明八年(一四七六)下諏訪春秋両宮御造宮帳で、「氷室分、合籾廿七俵、此代五貫四百文、同人(取手 大輪越前守、手執 小祝与作)」とある。

旧法輪寺の大師堂に、天文一四年(一五四五)一一月二四日の修覆銘のある智者・章安・妙楽の三大師画像がある。これは「長野県町村誌」によると、治承の兵乱(一一八〇)に兵火をさけて三井寺の僧林海が持参したと伝えられている。慶安四年検地帳によれば、屋敷一畝一二歩林海、中田五畝二六歩の大師仏供免がある。


氷室村
ひむろむら

西賀茂(にしがも)村の枝村で西賀茂北西の山間に位置。「延喜式」が記す「栗栖野氷室一所」があったという。「山州名跡志」に「在紫竹(しちく)北三十町余、有民村為名、到此所、南ニ有氷室坂、境方嶮峨ニシテ四面山也。上古此所ニ有氷室」とあり、山に囲まれた山間の村であった。

「京羽二重織留」は、「氷室(ひむろ) 坂口まで一里十町、東西五町、南北二十二町、家数十四軒」と記し、「京城勝覧」には「深山幽谷の中に民家あり、田畠はすくなし、土民は薪をうりて産業とす」とある。


氷室村
ひむろむら

[現在地名]稲沢市氷室町

東は目比(むくい)村で、三宅(みやけ)川東岸の自然堤防上にあたる地高に位置し、天保村絵図によると、村の南境を清洲(きよす)・津島街道が通り、ほぼ中央を南北に大塚(おおつか)井が流れ、その西側に人家が建並んでいた。天正末は織田信雄の家臣陸田市左衛門の知行地であった(織田信雄分限帳)。

概高三二二石余、新田六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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