冬の氷を夏まで貯えておく室。文献上の初見は,《日本書紀》仁徳紀に見える大和の闘鶏(つげ)の氷室の記述である。その構造は,土を1丈余り掘り,厚く茅荻を敷き,その上に氷を置き,草をもって覆ったものという。同書孝徳紀にも氷連(ひのむらじ)の氏姓をもつ人名が見え,大化前代すでに朝廷所属の氷室の存したことが認められる。令制では宮内省主水司が氷室を管理したが,大宝令の制度では氷戸144戸が置かれ,役丁を結番して氷の貯蔵・運搬等に当たった。さらに《延喜式》には,4月から9月までの間,天皇の供御以下,中宮・東宮などに進める氷の量,氷を運ぶ徭丁,氷室の雑用料などを規定している。その氷室の数は21室で,山城国徳岡,小野,栗栖野,土坂(長坂か),賢木原,石前(松前=松崎か)および大和国都介(つげ),河内国讃良,近江国竜花,丹波国池辺の10ヵ所にあった。また氷を採取する氷池は,山城の296ヵ所をはじめ,大和30ヵ所,河内58ヵ所,近江66ヵ所,丹波90ヵ所,計540ヵ所にのぼる。上記のうち,近江国竜花の氷室は早く廃絶したらしく,《朝野群載》所収の1101年(康和3)の主水司注進状に列挙する12ヵ所のなかには入っていない。また同注進状には,徳岡,松崎など山城の9ヵ所の氷室をはじめ,大和の都介,河内の讃良,丹波の神吉の氷室を挙げ,《延喜式》の地名と多少相違するものもあるが,おおよそ式の制度を引き継いでいると思われる。しかし氷戸制は律令体制の衰退とともに消滅し,鎌倉初期以降主水正を世襲した清原氏が,目代-預-供御人の系列を組織化し,各氷室に付属する氷室田を含めて,諸役免除,一円進止の禁裏御料所と称して知行した。これは宮内省大炊寮の御稲田(みいねだ)の知行形態に似ており,御稲田とともに室町時代末まで存続したことは,主水正目代の職にあった中原康富の日記《康富記》や広島大学所蔵《猪熊文書》所収の氷室文書などによって確認できる。
→氷の朔日(ついたち) →室(むろ)
執筆者:橋本 義彦
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夏に氷を使用するため、冬の間に池にはった氷を切り取り貯蔵した穴室。その氷は4~9月、朝廷に献上され天皇・皇族・貴族に供された。『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇62年条には、地面を一丈(3メートル)余掘り、草を敷いた上に氷を重ね、茅などで覆うという。『延喜式(えんぎしき)』では、主水司(しゅすいし)に属する氷戸(ひこ)が管理する氷室が、山城・大和・河内(かわち)・近江(おうみ)・丹波に合計21室あった。平城京の長屋王宅跡から「都祁(つげ)氷室」から長屋王家へ夏に氷を進上した木簡などが出土し、奈良時代初期の氷室の実態がうかがえるとともに、朝廷とは別に王族も独自に氷室を運営していたことが判明した。氷室の制度は中世以降にも存続した。
[寺崎保広]
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…また,地中にうがたれた穴蔵や山腹などに掘ってつくった岩屋も室と呼ばれた。しだいに室が住宅の部屋を示すことはなくなり,冬期に得られる氷を夏期まで保存させておく氷室(ひむろ)や醸造に不可欠の麴室(こうじむろ)などに室ということばが使われている。氷室は具体的な形が残った遺跡は発見されていないが,夏期に宮中へ毎日氷が供給された記録が残っている。…
…家庭用のものを指し,電力による冷凍機を用いる電気冷蔵庫が一般的である。食品の保存には,古くは天然の氷や雪を利用したと思われ,土に穴を掘り,草を敷いてその中に氷を保存する氷室(ひむろ)の記事が《日本書紀》仁徳天皇62年条に見える。この氷を夏季には朝廷に献上する習慣も古代からあり,また江戸時代の将軍家は金沢から氷を取り寄せていた。…
※「氷室」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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