日本歴史地名大系 「永代村」の解説 永代村えいだいむら 千葉県:館山市永代村[現在地名]館山市山荻(やもおぎ)山荻村に西・南・北を囲まれるように位置し、汐入(しおいり)川の支流が形成する谷のひとつを占める。東は丘陵を境に朝夷(あさい)郡大貫(おおぬき)村(現千倉町)。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高四六石余(うち田二七石余)、同一五年の里見家分限帳では一門の頭正木大膳の給知。正保郷帳では高五一石余(うち田三九石余)で、旗本本多領。文化七年(一八一〇)から文政六年(一八二三)までは陸奥白河藩領。その後幕府領となるが、天保村高帳では武蔵忍藩領、房陽郡郷考でも同藩領で、家数七。嘉永七年(一八五四)には陸奥会津藩領(正木家文書)、旧高旧領取調帳によると幕末には幕府領で、明治元年(一八六八)館山藩領となった。 永代村えいたいむら 静岡県:榛原郡榛原町永代村[現在地名]榛原町勝俣(かつまた)下庄内(しもしようない)村の北東に位置し、勝間田(かつまた)川の下流右岸、橋柄(はしがら)川の勝間田川への合流点付近に立地する。文禄二年検地高目録に永代方村とみえ、高一六〇石余。正保郷帳では田方一五三石余・畑方六石余、幕府領で二代官所支配。ほかに高山(たかやま)権現領五斗がある。「遠江国風土記伝」には「正保図帳は永代一村、元禄高帳は四村に分る」と記され、分村後当村は川崎永代(かわさきえいたい)村とも記された(享保郷村高帳)。元禄郷帳には永代村高四八石余のほか、永代七郎左衛門(えいたいしちろうざえもん)分・永代伏方(えいたいふせかた)村・永代切山(えいたいきりやま)分が記される。村高は幕末までほぼ変わらない。 永代村えいだいむら 秋田県:仙北郡太田町永代村[現在地名]太田町永代平野に出る川口(かわぐち)川の南岸にあり、東は山地。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六二石で、新田とあるが、享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に本田当高五二石余、本田並当高三三石余、新田当高二一石余、合計当高一〇七石五斗一升二合とあり、藩政期以前に成立していた村と思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by