永吉庄(読み)ながよしのしよう

日本歴史地名大系 「永吉庄」の解説

永吉庄
ながよしのしよう

人吉市と上球磨を除く球磨郡に所領が散らばる散在性荘園。建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に、相伝の私領として「永吉庄之内」の次の各地をあげている。横瀬(現多良木町説あるも疑問)・青山之村(現相良村四浦晴山とする説がある)・目田之村(現免田町)・山田之村(現山江村)・黒田之村(現免田町)・原田之村(現人吉市)深水(現相良村)・をうかき(大柿、現人吉市)・平野之村(現錦町)・永池之村(現免田町)中神之村(現人吉市)・渡之村(現球磨村)・目良生之村(現錦町)深田之村(現深田村)・河辺之村(現相良村)・尾瀬之村(大瀬、現球磨村)・高野瀬之村(現球磨村)・五木之村(現五木村)・田代之村(現相良村)・は(つカ)かミ之村(初神、現相良村)。以上のうち河辺之村までは、田数と石高、および村と記載されたものには公事高を示す貫高の記載があるが、尾瀬之村からあとは、さつし・いた・うるし・くず・鹿かハ・茶・あつかミなど山の産物のみがあげられており、田地はなかったものと思われる。以上の地名の現在地比定も、二ヵ所以上に同一地名がある場合、この点を考慮して行った。

平河氏は鎌倉時代中期以降、永吉庄の知行権をめぐって預所と争うことになるが、預所職が大江広元に与えられたのが建久三年であり、当文書は訴訟に際し、それ以前の平河氏の所領内容を主張すべく、後年作られたものと思われる。しかし永吉庄の所在地を示す史料としては信をおけるものである。田数の合計は二九七町六反で、深田五〇町・目良生四〇町七反・山田四〇町一反・黒田三九町五反などが田数の多い所で、庄の中心が現在の深田ふかだ村・免田めんだ町・にしき町の球磨川流域にあったことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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