日本歴史地名大系 「人吉庄」の解説
人吉庄
ひとよしのしよう
〔荘の成立と地頭相良氏の進出〕
荘名の初見は建久八年(一一九七)閏六月日のいわゆる建久図田帳の一部と思われる肥後国球磨郡田数領主等目録写(相良家文書)で、
とあり、同郡内にほかに「鎌倉殿御領五百丁」と「公田九百丁」があった。当庄の六〇〇町はもちろん表面上の大田文公田数である。荘成立の事情は明確でないが、預所の対馬前司中原清業は、八条女院の家司であった平頼盛の後見侍あるいは郎従といわれ(玉葉など)、頼盛の嫡子円性(平光盛)が五女の冷泉局に譲与した分に蓮花王院領「肥後国球麻人吉庄」とあることなどから(寛喜元年六月日「円性処分状」久我家文書)、寿永三年(一一八四)四月五日、源頼朝が池大納言家(頼盛)の沙汰として、後白河院から示された没官領注文から省いて安堵した一七ヵ所の一つ「球臼間野庄肥後」(「吾妻鏡」元暦元年四月六日条)と密接な関係があると判断される。ところが明確に当庄成立後、領家八条女院庁は当庄を球磨庄とよんでいる(延応二年六月日「八条院政所下文」願成寺文書)。また当庄に隣接していた
再編成後の当庄は本庄と東郷よりなり、寛元二年(一二四四)五月一五日の人吉庄起請田以下中分注進状(相良家文書)によれば、建久九年の検注では本庄二四四町九反二丈、東郷一〇七町一反一丈、計三五二町三丈で、これは起請田といわれる。その後建暦二年(一二一二)の検注により、本庄八二町五反三丈、東郷二八町九反四丈が検出され(
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報