永野金山跡(読み)ながのきんざんあと

日本歴史地名大系 「永野金山跡」の解説

永野金山跡
ながのきんざんあと

[現在地名]薩摩町永野、姶良郡横川町上ノ

薩摩国伊佐郡長野ながの村と大隅国桑原くわはら横川よこがわ上之かみの(現横川町)やまにまたがる地にあった金山。江戸時代には長野ながの金山と記され、山ヶ野金山ともいう。寛永一七年(一六四〇)宮之城みやのじよう領主島津久通が領内の佐志さし(現宮之城町)川中から砂金が発見されたのを機に、内山与右衛門らに命じて上流山谷を探鉱させた結果、同年三月二二日に長野宍焼ししやき谷の川中に金鉱石を発見し(列朝制度)、続いて夢想谷むそうだに(現横川町)上方山中に露出した金鉱脈が発見された(「金山旧記」尚古集成館蔵、「称名墓志巻ノ二」新薩藩叢書)。同年六月鹿児島藩は採掘を計画。翌一八年八月には砂金九八〇両余が献上された。同一九年一月、鹿児島藩は幕府の許可を得て金山を開業、北郷久加が金山総奉行に任命された。このとき藩領内外から二万人の山師や金掘鉱夫たちが集まったといい(列朝制度)、長野から山ヶ野までを一円に囲い、東西に出入口を設け、番所を置いて出入りを取締まった(三国名勝図会)。長野・山ヶ野境の白仁田しらにたには境木が立てられた(列朝制度)。しかし幕府の命で同年一二月金山は十数年閉鎖された(「島津久通外二名連署書状」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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