日本の城がわかる事典 「江馬下館」の解説 えましもやかた【江馬下館】 岐阜県飛騨市(旧吉城郡神岡町)にあった城館。高原諏訪城・土城・寺林城・政元城・洞城・石神城(いずれも飛騨市)とともに「江馬氏城館跡」として国指定史跡となっている。同館の南東方向にあった高原諏訪城を詰城とした北飛騨の戦国大名・江馬氏の平時の居館である。江馬氏が築いたとされるが、築城年代・築城者はくわしくわかっていない。戦国時代、江馬氏は高原諏訪城を本拠として北飛騨地方に勢力をふるったが、越後の上杉氏と甲斐の武田氏が勢力を競う中で翻弄された。城主の江馬時盛は初め武田氏に通じて、南飛騨の姉小路氏を攻め勢力を伸ばしたが、越後の上杉氏が飛騨に侵攻して降伏した。1564年(永禄7)、武田信玄は山県昌景(やまがたまさかげ)(当時は飫富昌景)に命じて飛騨への侵攻を開始する。これにより、時盛は再び武田氏に帰順し、翌1565年(永禄8)には武田氏の軍勢とともに越中(富山県)に侵攻している。その後、武田氏に従う時盛と、上杉氏に好意を寄せる嫡子輝盛が対立して内部対立が激しくなり、1573年(天正1)には輝盛は父時盛を暗殺して家督を継いだ。輝盛は1582年(天正10)10月、織田信長が本能寺の変で死去したことから、信長に臣従していた南飛騨の三木自綱(これつな)を攻めた。しかし、吉城郡荒城川の戦い(八日町の戦い)で三木氏に敗れ、輝盛も討ち死にした。高原諏訪城は、その直後に小島城主・小島時光によって攻められ落城、廃城になった。江馬下館もその際落城し、廃棄されたと考えられている。また、輝盛の後継とされる江馬時政は金森氏を頼ったものの、のちに反乱を起こして殺害され江馬氏は滅亡した。なお、この館が下館とよばれるのは、前述の武田氏の飛騨侵攻後、山形昌景が神岡城が築かれる場所に館(江馬之御館)を構えていたことから、その混同を避けるための命名である。館跡はその後水田となったが、発掘調査により、全国的にも珍しい当時の武家の巨石を使った庭園があったことも明らかになったほか、土塁や堀跡も発掘された。庭園をはじめかつての遺構が復元され、史跡江馬氏館跡公園として整備されている。神岡鉄道飛弾神岡駅からタクシー。高山駅からは車約60分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報