池辺氷田(読み)いけべのひた

改訂新版 世界大百科事典 「池辺氷田」の意味・わかりやすい解説

池辺氷田 (いけべのひた)

6世紀後半の崇仏家。生没年不詳。池辺氏は帰化系の雄族東漢(やまとのあや)氏一族溝辺ともみえ,姓(かばね)は直(あたい)。氷田は《日本書紀》欽明14年5月条に河内国泉郡の茅渟(ちぬ)の海に漂う霊妙な楠を取って天皇に献じ,天皇は画師にこの木で吉野寺の放光仏2体を彫造させたとあって,これを《日本霊異記》では氷田に菩薩像3体を造らせたとし,また《日本書紀》敏達13年条には鹿深(かふか)臣と佐伯連が百済から持ち帰った仏像2体をまつるために,蘇我馬子が司馬達等(しばたつと)と氷田を四方に遣わして修行者を求めさせ,播磨国で高句麗人の恵便(えびん)という還俗者を得たとある。
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朝日日本歴史人物事典 「池辺氷田」の解説

池辺氷田

生年:生没年不詳
最初期(6世紀)の仏教信者として著名。池辺直氏は中国系帰化人の東漢氏が多数の氏に分かれたなかのひとつ。『日本書紀』敏達13(584)年条によれば,蘇我馬子は仏像2体を入手すると,司馬達等と彼のふたりに命じて修行者を求めさせ,還俗僧(もと僧であった者)の恵便を見つけだした。そして恵便を師として善信尼ら3人の尼を出家させた。わが国最初の出家だという。また『日本霊異記』上巻第5話では,敏達天皇の代,海中から入手した楠で仏像を造ることになった際,彼が仏像3体を刻んだという。これが吉野の比蘇寺の阿弥陀像だという。『日本書紀』ではこの話を欽明14年条にかけている。

(吉田一彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池辺氷田」の解説

池辺氷田 いけべの-ひた

?-? 6世紀後半の仏師
「日本書紀」によれば,欽明(きんめい)天皇14年(553)和泉(いずみ)(大阪府)の海中から樟(くすのき)をとりあげ天皇に献上,命令により仏像2体がつくられたという。また敏達(びだつ)天皇13年(584)百済(くだら)から仏像2体がとどいた際,蘇我馬子の命により修行者をもとめ,播磨(はりま)(兵庫県)に高句麗(こうくり)の還俗僧(げんぞくそう)恵便(えべん)をさがしだしたとされる。

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