沢谷村(読み)さわだにむら

日本歴史地名大系 「沢谷村」の解説

沢谷村
さわだにむら

[現在地名]木沢村沢谷

懸盤かけばん村の北、那賀川支流沢谷さわだに川流域の山間に位置する。文明八年(一四七六)六月一五日の仁宇郷公事銭注文(徴古雑抄)には奥分のうちに「さう谷九百文」とみえるが、これは当地のことと思われる。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に村名がみえる。正保国絵図には「長安之内沢谷村」とあり、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳でも長安ながやす(現上那賀町)の枝村として村名がみえる。享保七年(一七二二)の仁宇谷村々棟付帳(湯浅家文書)によると高一七石余。宝暦一四年(一七六四)の沢谷村検地帳(斎城家文書)では田五反余・畑一〇町六反余、計一一町二反余・高二五石余。この検地帳には、寺内てらうち高野たかの小泉こいずみ横谷よこだに川成かわなりの五ヵ村分も書上げられており、六ヵ村の総反別一九町九反余・高四五石余。


沢谷村
さわだにむら

[現在地名]倉吉市沢谷

志津しつ村の北方北谷きただに川左岸にあり、東は福富ふくどみ村。集落高城たかしろ山の南麓に位置するが、古くは北東方の谷間にあったという。しかし同所で火災や洪水に遭ったため移転したと伝える。拝領高は三六五石余、本免は四ツ八分。吉田氏・倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四〇〇石余、竈数二〇余、村内に天神宮を祀る。


沢谷村
さわだにむら

[現在地名]三田市沢谷・学園がくえん

上内神かみうちがみ村の南、小屋寺こやでらの東に位置する。三田丘陵の高原地帯で大部分原野しん池・おお池など灌漑池が多い。内神川上流域で、支流沢谷川の狭長な峡谷低地に集落がある。もと上内神村に属していたが分村したとされ、沢谷村高二二三石余(「御領分御高付覚」九鬼家文書)正保郷帳に沢谷村とみえ、高四三一石余。


沢谷村
さわたにむら

[現在地名]天川村大字沢谷

てんノ川上流、川合かわい村の対岸立地。天川郷のうち。慶長郷帳では村高九・三一石、幕府領。寛永郷帳には「村ナシ、取ナシ」と注記し、この頃は廃村であったらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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