日本の城がわかる事典 「河村城」の解説 かわむらじょう【河村城】 神奈川県足柄郡山北町にあった山城(やまじろ)。相模、駿河、甲斐の3国の国境付近にあった城である。平安時代末期に藤原秀郷流の河村秀高によって築かれたとされているが、築城年代などくわしいことはわかっていない。秀高の子義秀は、源頼朝の挙兵の際に平家方に属していたため所領を没収されたが、『吾妻鏡』によると、1190年(建久1)に鎌倉で行われた流鏑馬(やぶさめ)で妙技を見せたことから本領復帰が叶った。この出来事を由来とする「室生神社流鏑馬」は同町の指定無形文化財となっている。河村氏は南北朝時代、新田氏に与する南朝方の武将として足利尊氏と敵対した。1352年(文和1/正平7)、河村秀国と河村秀経は新田義興、脇屋義治とともに同城に立て籠もり、2年間にわたり足利尊氏麾下の畠山国清の攻勢をしのいだが、河村一族の多くが討ち死にし、新田義興と脇屋義治は甲州に逃れたといわれている。河村城は畠山国清の城となり、その後関東管領の上杉憲実の属城となった。憲実は鎌倉公方足利持氏との関係が悪化し、鎌倉を脱出し上野の平井城(群馬県藤岡市)に逃れたが、その際、河村城へ逃れることも検討されたという。その後起こった1437年(永享9)の永享の乱で、小田原城(小田原市)の大森氏頼の弟で、鎌倉公方足利持氏に属した大森憲頼がこれを攻め、奪い取った。1495年(明応4)には、伊豆韮山城(静岡県伊豆の国市)の伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から小田原城を奪った後、北条氏の属城となった。1568年(永禄11)に甲相駿三国同盟が崩壊して、元亀年間(1570~73年)には甲斐の武田信玄が相模に侵攻したが、その際に河村城は北条氏により整備・補強されている。このころ、周辺の諸城と同様、河村城も北条氏と武田氏の争奪の対象となった。1590年(天正18)の小田原の役で、豊臣秀吉の軍勢に攻められて落城し、その後廃城となったと考えられている。現在、城跡は河村城址歴史公園として整備され、本丸やその他の郭、畝堀などの遺構が現存している。JR御殿場線山北駅から徒歩約10分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報